ムハンマド・シャイバーニー
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生涯

1451年、シャー・ブダグの子として生まれる。
1468年にアブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンとジャニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。
1496年/1497年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した[3]。
1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフルの支配権を得た[3]。一時はティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還した[3]。
1503年、アム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地,タシュケントを占領。1505年にはホラズム地方を、1507年にはヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した[3]。
しかし、その後のカザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に失敗し、諸王族に対する分封政策が失敗したため、彼らからの支持を得られなくなった[3]。折しもサファヴィー朝のシャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)の侵攻に遭い、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはメルヴ郊外で敗死した(1510年)[3]。ムハンマド・シャイバーニー・ハンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、盃にされた(髑髏杯)。
子
- フッラム・シャー
- テムル