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ウルス

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ウルス(中世モンゴル語: ᠦᠯᠦᠰ ulus、 現代モンゴル語: улсラテン文字転写: uls、オルス)は、モンゴル語で「領土」ないし封土、さらにその規模が巨大化した場合には「国家」をも意味するが、「領民」の存在を前提とする[1]。『元朝秘史』ではウルスに「国」「百姓」の訳語をあてる一方、「イルゲン(irgen)」の語もまた「百姓」と訳されるが、両者は質的に相違する[1]。ウルスの方が支配者側からの視点でとらえた「人々」という意味合いが強く、それゆえ単なる部族集団や部民集団ではない政治的なまとまりをもった「国」を意味する[1]

概要

「ウルス」とはモンゴル語であり、現在のモンゴル国も「モンゴル・ウルス(Монгол Улс)」が正式名称である[2]。「ウルス」はトルコ語の「イル」もしくは「エル」に相当する[2]6世紀から8世紀モンゴル高原を中心として、中央ユーラシアに君臨した突厥(テュルク)帝国も国家のことを「イル」もしくは「エル」といった[2]。「ウルス」も「イル」「エル」も「人間の集団」を原義とする[2]。そこから部衆・国民・国家を意味するようになった[2]。現在のモンゴル・ウルスの「ウルス」も「国」という意味で使っている[2]

なお、『集史』などのアラビア語ペルシア語の史料では、ウルスは「ウールース」 «أولوس» (アラビア語のラテン・アルファベット転写: ūlūs, ペルシア語のラテン・アルファベット転写: olūs。)と記されている[3][2]。『集史』にみられる「ウルス」の用法を調べると、「国」に近い意味で使われているが、農耕地域の国家や、西欧型をモデルとする近現代の国家などの「土地」や「領域」の側面での意味合いはかなり希薄で、あくまで「人間集団」という意味に比重が置かれている[4]。つまり、固定された国家ではなく、人間の塊が移動すれば「ウルス」も移動してしまうという意味合いである[4]

起源

モンゴル語のウルスはテュルク語のulush/ulusから入ったと考えられるが、突厥碑文ウイグル碑文、さらに11世紀マフムード・カーシュガリーの『テュルク語集成』や『クタドゥグ・ビリグ』では「国」「町」「集落」など、単に地理的意味を持つ語にすぎなかったと思われる[1]。そして遅くとも11~12世紀までにモンゴル語に入った「ウルス」の語は、モンゴルのもとで上述のように政治的概念を帯びるに至り、さらにそれがテュルク語に再移入されたため、モンゴル帝国時代以降のテュルク語において「ウルス」はモンゴル語と同様の意味を有するようになったと思われる[1]。ペルシア語文献の「īl wa ulūs」、テュルク語文献の「el wä ulus」が二詞一意であるなら、ウルスはテュルク語のil/el(民・国)と同義に解されていたことになる[1]

可動性と移動性

可動性と移動性をもった牧民連合体であるウルスはその規模・成員の固定性を排したフレキシブルな集団であったと言える[1]。他の勢力との戦闘に勝利すればウルスの成員は戦利品の分配に与り、同盟者・投降者を加えることでウルス全体の富と規模は拡大し、反対に戦闘に敗北すればウルスは縮小し、場合によっては消滅する[1]。またウルスの成立・存続には指導者の存在が必須であるため、指導者不在の状態が続くとウルスは分裂するか、四散消滅する[1]

チンギス・カンが配置したウルス

匈奴の二十四万騎体制、オグズ・カガンの6人の子供と24人の孫による支配体制、モンゴル帝国の左右翼ウルスの比較。

遊牧民にとって「国」とは人の集まりであった[5]。モンゴル語の「ウルス」も、テュルク語の「イル」「エル」も元来「人の集合体」を意味した[5]チンギス・カンが即位後最初に実施したのが遊牧民集団の再編成であった[5]。支配下にあった遊牧民を数百から千人の戦士を供出することのできる95の集団(千人隊)に編成した[5]。千人隊(トゥメン)は軍事・政治行政・社会すべての基礎となる組織で、その下は百人隊・十人隊と十進法で組織されていた[5]。国家の要であった千人隊の隊長には功臣たちが任命された[5]。また、チンギス・カンは3人の息子ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれ4個の千人隊を与え、モンゴル高原の西に連なるアルタイ山脈西麓沿いに、北からジョチ・ウルスオゴデイ・ウルスチャガタイ・ウルスの順で遊牧地を定めた[5]。一方、3人の弟ジョチ・カサルカチウンの子アルチダイテムゲ・オッチギンにはそれぞれ1,3,5個の千人隊が与えられた[5]。また、母親のホエルンにも3個の千人隊が分与されたが、そっくりテムゲ・オッチギンが引き継いだので、テムゲ・オッチギン・ウルスだけが8個の千人隊を持つことになった[5]。彼らは東方の興安嶺一帯に北からカサル・ウルスオッチギン・ウルスカチウン・ウルスの順で牧地を得た[5]。このようにチンギス・カンはモンゴル高原の東西辺境に12ずつの千人隊を擁するウルスを配置したのである[5]

このような左右翼(東西)へのウルスの配置は、匈奴帝国において左右賢王(屠耆)がそれぞれ12の「万騎」を統括した体制、また伝説上の君主オグズ・カガンが6人の子供とそれぞれの4人の子供を率いたとされる体制と酷似する[6]。この他にも、北周の開祖である宇文泰が「西魏二十四」を定め、それぞれ四軍を率いる「六柱国大将軍」を任命するなど、「6人の権力者とその下に配される4人の領袖」という体制は匈奴以来の遊牧国家にとって伝統的な形式であった[6]。モンゴル史研究者の杉山正明は、『集史』などの伝える「オグズ・カガン説話」は、「伝説のオグズ・カガン」と「事実のチンギス・カン」を二重写しにし、テュルク・モンゴル系諸民族の支配の正当性を整理する意図があったものと推定する[6]

脚注

参考資料

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