ムラード

From Wikipedia, the free encyclopedia

ムラード(Murad, 1570年6月7日 - 1599年5月12日)は、北インドムガル帝国の皇帝アクバルの次男(ただし、夭折した兄2人がいるので正確には四男である)。

死去 1599年5月12日
ジャルナープル
配偶者 ハビーバ・バーヌー・ベーグム
子女 ルスタム
アーラム
イファト・ジャハーン・バーヌー・ベーグム
概要 ムラードMurad, 出生 ...
ムラード
Murad
ムガル帝国皇子
ムラードと弟ダーニヤール

出生 1570年6月7日
ファテープル・シークリーサリーム・チシュティーの家
死去 1599年5月12日
ジャルナープル
配偶者 ハビーバ・バーヌー・ベーグム
子女 ルスタム
アーラム
イファト・ジャハーン・バーヌー・ベーグム
父親 アクバル
母親 サリーマ・スルターン・ベーグム
宗教 イスラーム教スンナ派
テンプレートを表示
閉じる

生涯

1570年6月7日、ムガル帝国の皇帝アクバルとその妃サリーマ・スルターン・ベーグムの息子として生まれる[1]

1594年末以降、ムラードは帝国の武将アブドゥル・ラヒーム・ハーンとともにデカンへ遠征した。

だが、ムラードは遠征中、アブドゥル・ラヒーム・ハーンとよく意見の対立から衝突するようになった。アブル・ファズルの著書「アクバル・ナーマ」では、その原因の多くをアブドゥル・ラヒーム・ハーンとしているが、同時にムラードの経験不足、邪な取り巻きにも目をむけている。

この対立においては、ムラードの後見役サーディク・ムハンマド・ハーン・ヘラーティーがよく仲介にあたったが、1597年に彼は死亡している。ムラードとアブドゥル・ラヒーム・ハーンとの関係は悪化の一途をたどり、ムラードはアクバルに苦情の書簡を送り、アブドゥル・ラヒーム・ハーンは解任を申し出た。

最終的に両者の対立は、アブドゥル・ラヒーム・ハーンが帝都アーグラに赴いて弁解し、1599年初頭にアブル・ファズルがムラードに帰還の命を伝えるためデカンに派遣され、デカンは代わりにミールザー・シャー・ルフに任されることとなった。

同年中頃、アブル・ファズルがムラードの陣営に向かった際、ムラードはアブル・ファズルとの面会を拒否するため、アフマドナガル王国の領土にさらに進行した。そして、これは不首尾に終わり、酒に浸るようになった。

同年5月12日、ムラードは過度の飲酒により、28歳で死去した。アブル・ファズルはムラードの陣営から30キロの地点に着いたとき、新たな後見役ミールザー・ユースフ・ハーン・レザウィーからムラードの危篤の知らせを受け取とったが、到着前にムラードは死亡した[1]。アブル・ファズルは結局、その死をアクバルに伝えることが役目となった。

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI