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メアリー・エリザベス・ウッド

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生誕 (1861-08-22) 1861年8月22日
アメリカ合衆国ニューヨーク州エルバ
死没 (1931-05-01) 1931年5月1日(69歳没)
中国湖北省武漢市武昌区
国籍 アメリカ合衆国
職業 図書館司書
メアリー・エリザベス・ウッド
Mary Elizabeth Wood
メアリー・エリザベス・ウッド
生誕 (1861-08-22) 1861年8月22日
アメリカ合衆国ニューヨーク州エルバ
死没 (1931-05-01) 1931年5月1日(69歳没)
中国湖北省武漢市武昌区
国籍 アメリカ合衆国
職業 図書館司書
著名な実績 中国における図書館普及活動
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メアリー・エリザベス・ウッド(Mary Elizabeth Wood, 1861年8月22日 - 1931年5月1日)は、アメリカ合衆国出身の宣教師、図書館司書。中国に西洋式の公共図書館制度を紹介した人物として知られる。中国最初の図書館学校、文華図書館学専科学校の創設者であり、中国における近代的図書館員教育の発展に貢献したことから、「近代中国図書館運動の母」とも呼ばれる。

ウッドは、アメリカ合衆国ニューヨーク州ジェネシー郡エルバで、エドワード・ファーマー・ウッドとメアリー・ジェーン・ウッドのもとに生まれた[1]。7人きょうだいの中で唯一の娘として育ち[2]、ニューヨーク州バタビアで私立学校および公立学校に通った[1]。その後、ニューヨーク市にあるプラット・インスティテュート情報図書館学科と、シモンズ大学の図書館学科で学んだ[3][4]。後年、自身の子供時代を「よく本を読む子どもだった」と回想している[2]。28歳でリッチモンド・メモリアル図書館の最初の司書に任命され、以降10年間その職にあった[4]。

中国との関わり

ウッドは1899年に、当時、米国聖公会の宣教師として中国武漢武昌区に駐在していた末弟ロバート・E・ウッドを訪ねて中国に赴いた[2]。当初の訪中は、外国人排斥の暴動が激化し始めていた時期に[3]、弟の身の安全を案じたことによるものだった。しかし、ロバートに説得され、宣教師たちが運営していた学校である文華書院での英語教師としてとどまることとなった[2]。ウッド自身は当初、滞在を「一時的な延長にすぎない」と考えていた[2]が、やがて校内の教材不足、とりわけ図書館が存在しないことを憂慮するようになった[2]。1901年までに、アメリカにいる知人たちに図書寄贈を呼びかけ、文華書院の教育を支援するための蔵書の整備に着手した[2][3]。

数年後、ウッドは蔵書を収める独立した図書館建物が必要だと考えるようになり、1906年には建設資金の調達と図書館学教育の修得という2つの目的を携えてアメリカに帰国した[2]。1908年に中国に戻るまでに、必要な資金を確保するとともに、ニューヨーク州ブルックリン区のプラット・インスティテュート図書館学校で図書館学の学位を取得した[3]。文華書院での図書館建設に関わるうち、ウッドはこの仕事に強い使命感を抱くようになった。彼女は「私はこの仕事に取り組む必要があると感じており、それは中国に対する神の計画の一部だと感じる」と述べている[2]。その後の人生の大半を中国における図書館活動に捧げ、アメリカへの帰国も、図書館組織、資料、教育課程の整備や資金援助を求めるための機会に限られるようになっていった[3]。

初期の図書館プロジェクト

ウッドが中国で最初に手がけた図書館事業は、文華書院の図書館、文華公書林の設立であった。彼女はこの図書館の渉外責任者と館長を務めた。建設は1901年6月1日に始まり、1910年に開館した[2]。蔵書は当初、一般書、宗教書、図版資料など、中国語と英語の書籍あわせて3,000冊からなっていた[2]。ウッドの指導のもとで図書館は急速に発展し、数年のうちに蔵書は計12,000冊に増加し、その内訳は英語書5,000冊、中国語書7,000冊であった。さらに約60タイトルの逐次刊行物も所蔵するようになった[2]。

この図書館は文華書院の小規模な共同体のためだけのものではなく、ウッドは対外活動にも力を入れた。閲覧室を一般公開し、図書館の講堂を公開講座の会場として提供していった[2]。一連の講座では「科学、歴史、時事問題」といった内容が扱われ、地域から数百人が参加する人気の催しとなった[2]。また、教え子の一人である沈祖栄の通訳の助けを得て[3]、中国の公立学校で利用するため、英語作品を中国語に翻訳した巡回文庫の作成にも取り組んだ[2]。沈とウッドは、図書館資料をできるだけ広く届けることに注力し、移動図書館の巡回範囲も拡大していった。そのサービスは、合計で130万人近い人口を有する近隣都市圏にまで及び、ときには宣教師の家族が滞在する山岳リゾート地域まで図書を運ぶ労働者を雇うこともあった[3]。

しかし、こうした努力にもかかわらず、図書館啓発運動に対する中国の一般大衆の反応は冷ややかなものにとどまった。そこでウッドは、中国における図書館活動を推進する鍵は、図書館員の専門性を高めることにあると考えるようになった。当時の中国には図書館学校が存在しなかったため、1914年、ウッドはニューヨーク公共図書館の図書館学校で教育を受けさせるため、沈を留学させた[3]。さらに、もう一人の教え子である胡慶生も同じ道を志し、1917年に渡米した[3]。ウッドは、中国人学生に西洋式の近代的図書館員教育を受けさせ、その修了者が帰国後に知識と経験を共有することで、中国における司書職の発展の契機になることを期待していた。沈と胡は図書館学の学位を取得して帰国し、ウッドが次に進めようとしていた中国国内で図書館学校設立に協力することになった。

文華図書館学専科学校

文華図書館学専科学校の教員陣と1期生の学生たち(1921年)(中央に見える女性がウッド)

ウッドは、中国における近代的な図書館教育をより効果的に実現するには、学生を海外に送り出して図書館学の学位を取得させるよりも、中国国内に図書館学校を設立するべきだと判断した[1]。この頃までに文華書院は大学へと位置づけを変えており、当初、ウッドが主導する図書館学校はその一学部として設立される予定であった[2]。1918年、ウッドはアメリカに渡り、シモンズ・カレッジで1年間の司書教育を受けた。帰国後の1920年、ウッド、沈、胡を教員陣として文華図書館学専科学校を開設し、9名の学生を受け入れた[2]。

文華図書館学専科学校の教育課程は、アメリカの図書館学校のカリキュラムをモデルとしていた。必修科目には「図書館経営・運営、蔵書構築、目録・分類、レファレンス業務、図書館利用教育」があった[3]。さらに、学生にはドイツ語とフランス語の履修に加え、公共図書館および学校図書館での実習が課された[3]。入学要件も比較的厳しく、卒業生たちは中国国内の中核的な図書館に採用され、重要な地位を占めるようになっていった[3]。

1922年から1928年までの間に、45人の学生が文華図書館学専科学校を卒業し、その多くが中国内の国立図書館や大学図書館に就職した[3]。また、卒業生の多くは図書館研究にも積極的に関わるようになり、文華図書館学専科学校の紀要誌や他団体の雑誌に、図書館学関係の論文を発表した[3]。1952年、文華図書館学専科学校は武漢大学に吸収合併された[5]。ただし、ウッドはその遺言の中で、文華公書林そのものは単なる大学図書館ではなく、「独立した公共図書館」として位置づけられるべきだと定めていた[2]。

さらなる活動

ウッド、その後も図書館振興と図書館員養成のための活動を続けた。1924年にはワシントンDCに赴き、500名以上の上下両院議員を前に演説し、義和団賠償金基金から600万ドルを中国の公共図書館整備に充てるよう要請した[1]。この提案は同年5月に議会を通過し、カルビン・クーリッジ大統領の署名によって法制化された[2]。同年、ウッドはニューヨーク州サラトガ・スプリングズで開かれたアメリカ図書館協会年次大会にも出席し、中国での図書館活動への支援を訴えた。その呼びかけは実を結び、アメリカ図書館協会はアーサー・ボストウィックを中国に派遣し、図書館活動を視察させ、その改善に向けた報告書をまとめさせることを決定した[2]。

1925年のボストウィック視察の時期には、ウッドの図書館活動はさらに複数の助成金を獲得し、活動の幅を広げた。これには、北京における国立図書館設立のための基金、文華図書館学専科学校の奨学金として年間1万ドルの資金確保、さらに北京での中国図書館協会設立などが含まれていた[2]。1927年には、国際的な図書館活動の連携強化を目的として国際図書館連盟が設立されるにあたって、ウッドは設立15か国の一員として中国代表の立場で署名した[5]。

また、ウッドはワシントンD.C.において、中国の社会政治運動を代弁する存在ともなった。1927年には、中国に対する「不平等条約」の改正を訴え、「人力車夫に避難所を提供し、兵士に書籍を届けるような事業に継続的に関わってきた」と述べている[1]。彼女は、中国を代表する教育者や改革派完了たちの重要な協力者でもあり、その人道的・社会開発的な活動は中国の人々から広く支持を受けた。

一方で、ウッドの名は主に図書館関係の事業によって記憶されている。1931年には、ウッドの中国到着、文華公書林の建設、文華図書館学専科学校の設立という「3つの記念日」を祝う式典が計画されていたた[1][2]。しかし、ウッドはその式典を迎える前の1931年5月1日に武昌区で死去した[1]。追悼式は同年6月1日に文華公書林で行われ、かつての教え子と同僚、また彼女が創設し影響を与えた図書館事業の関係者らが参列した[6]。

参照文献

参考文献

外部リンク

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