メアリー・オースティン
From Wikipedia, the free encyclopedia
メアリー・ハンター・オースティン | |
|---|---|
|
メアリーの卒業写真 | |
| 生誕 |
1868年9月9日 |
| 死没 |
|
| 国籍 |
|
| 職業 | 小説家・随筆家・詩人 |
| 活動期間 | 1903年 – 1934年 |
| 配偶者 | スタッフォード・ウォレス・オースティン(1891年–1914年、離婚) |
| 子供 | ルース(1892年–1918年) |
メアリー・ハンター・オースティン(Mary Hunter Austin, 1868年9月9日 - 1934年8月13日)は、アメリカ合衆国の小説家・随筆家・詩人・劇作家。アメリカ南西部の自然と先住民文化を描いた先駆的なネイチャーライティング作家として知られる。
代表作『雨のすくない土地』(The Land of Little Rain、1903年)は、カリフォルニア州シエラネバダ山脈南部からモハーベ砂漠にかけての土地の動植物と人々を詩的な散文で描いた作品であり、アメリカネイチャーライティングの古典として高く評価されている[1]。
フェミニズムの先駆者としても活躍し、先住民・スペイン系アメリカ人の権利擁護、環境保護運動にも貢献した。生涯を通じて小説・短編集・戯曲・詩・評論など多数の著作を残した[2]。
幼少期・青年期
メアリー・ハンターは1868年9月9日、イリノイ州カーリンビルにて、弁護士ジョージ・ハンターとその妻スザンナ(旧姓グラハム)の6人兄妹の四番目として生まれた。ジョージ・ハンターはイングランドのヨークシャー出身で南北戦争の退役軍人であったが、戦地でマラリアに罹患し、病弱な晩年を過ごした。メアリーが10歳のとき、父と最も親しかった姉のジェニーが相次いで亡くなり、この喪失は彼女の内向的な性格と自然との深いつながりを一層強めることになった[3]。
幼いころから野原や果樹園をひとりで歩き回り、自然界との個人的な一体感を育んでいった。16歳でカーリンビルのブラックバーン大学に入学し、1888年に卒業した[4]。
カリフォルニア移住と結婚
1888年、家族とともにカリフォルニア州に移住し、サン・ホアキン・バレーに農地を開拓した。1891年5月18日、ハワイ出身でカリフォルニア大学バークレー校卒のスタッフォード・ウォレス・オースティンと結婚し、カリフォルニア州オーエンズ・バレーの各地に居住した。この地で砂漠と先住民の人々への深い愛着を育み、それが後の代表作の基盤となった[5]。
夫婦の間に生まれた一人娘ルース(1892年生)は出生時の傷が原因で1918年に亡くなった。夫との関係は知的・精神的に満たされないものであり、オースティンは1905年前後に別居し、1914年に正式に離婚した[6]。
作家活動の開花
1903年に『雨のすくない土地』を刊行し、直ちに大きな成功を収めた。以後、精力的な執筆活動を続け、年に約1冊のペースで作品を発表した。オーエンズ・バレーの水利権をめぐる「カリフォルニア水戦争」では夫とともに地元農民・牧場主側に立って運動したが、ロサンゼルス市側に敗れた[7]。
1906年のサンフランシスコ大地震後、オースティンはカリフォルニア州カーメルの芸術家コロニーに移住した。ここでジャック・ロンドン、アンブローズ・ビアス、ジョージ・スターリングらと交流した。フォレスト・シアターの共同創設者の一人となり、1912年には戯曲『炎』を自ら演出した[8]。
ヨーロッパ訪問とニューヨーク時代
イタリア・フランス・イギリスを訪れ、H・G・ウェルズ、ジョセフ・コンラッド、ジョージ・バーナード・ショーら著名な作家・知識人と交流した。ヨーロッパでの出会いはオースティンのフェミニズム思想を深め、社会主義への関心も加わった。
帰国後はニューヨークに移り、1910年から1915年頃にかけて劇作家としての地位確立を目指したが、この分野での成功は限定的であった。1912年には代表的長編小説『天才の女』(A Woman of Genius)を発表し、女性が結婚とキャリアの間で迫られる選択を自伝的要素を交えて描いた[9]。
サンタフェへの定住と晩年
1918年にニューメキシコ州サンタフェを初めて訪れ、先住民研究学校(School of American Research)での調査に携わった。1924年にサンタフェへ恒久的に移住し、サンタフェ・リトル・シアターの設立に協力した(現在もサンタフェ・プレイハウスとして営業中)。1925年にはスペイン植民地芸術協会(Spanish Colonial Arts Society)を共同設立し、地域文化の保存に尽力した[10]。
1929年には写真家アンセル・アダムスとの共著『タオス・プエブロ』(Taos Pueblo)を制作し、翌1930年に108部限定で刊行された。本書はアダムスの実際の写真プリントを収録した点で異例の作品であった。1932年には自伝『地平の大地』(Earth Horizon)を刊行した。1934年8月13日、サンタフェにて65歳で死去した。遺骨はピカチョ山の墓に納められた。死後、シエラネバダ山脈の「メアリー・オースティン山」にその名が冠された[11]。
学術的業績
オースティンはモハーベ砂漠の先住民の生活を17年にわたって調査研究し、その成果を文学作品に反映させた。民族学的な観察眼と詩的な表現力を兼ね備えた文体は、後のアメリカネイチャーライティング・エコクリティシズム(生態批評)の先駆と見なされている[12]。
1923年の『アメリカのリズム』(The American Rhythm)では先住民の詩歌を収集・再表現し、先住民の口承文学の保存と普及に貢献した。この手法をオースティンは「再表現(re-expression)」と呼び、直訳ではなく文化的本質の再創造を目指した。学者アナ・バジンスキーは、オースティンの再表現概念が人種と環境をめぐる複雑な文化交渉の場であったと分析している[13]。
また水資源をめぐる政治闘争への関与(カリフォルニア水戦争)は、環境正義運動の先駆的実践として評価されている。スタシー・アライモはオースティンの自然観について、「オースティンは自然の中に、家庭化されず、女性を家庭化しない空間を見出した」と論じ、女性と自然を抑圧の被害者としてではなく、強力な同盟者として描いた点を高く評価した[14]。
主な著作
書籍
- The Land of Little Rain (1903年)- カリフォルニア砂漠への讃歌。代表作。
- The Basket Woman: A Book of Fanciful Tales for Children (1904年)- 先住民神話に基づく児童向け物語集。
- Isidro (1905年)- ミッション時代を舞台にしたロマンス小説。
- The Flock (1906年)- カリフォルニアの牧羊業を描いた地域スケッチ集。
- Santa Lucia (1908年)- 小説。
- Lost Borders (1909年)- 砂漠を舞台にした短編集。
- Outland (1910年)(筆名:ゴードン・ステアーズ名義で発表)
- The Arrow Maker (1911年)- パイユート族の女性呪術師を描いた戯曲。ニューヨーク・ニュー・シアターで上演。
- A Woman of Genius (1912年)- 才能ある女性が結婚とキャリアの間で葛藤する自伝的長編。フェミニズム文学の代表作。
- The Green Bough (1913年)- 詩集。
- The Lovely Lady (1913年)- 短編集。
- California, Land of the Sun (1914年)
- The Ford (1917年)- 小説。
- The Trail Book (1918年)- 児童向け物語集。
- No. 26 Jayne Street (1920年)- 小説。
- The American Rhythm (1923年)- 先住民の詩歌の再表現と詩集。
- The Land of Journey's Ending (1924年)- アメリカ南西部の自然と文化を描いた随筆。
- Everyman's Genius (1925年)- 随筆。
- The Children Sing in the Far West (1928年)- 詩集。
- Taos Pueblo (1930年)- アンセル・アダムスとの共著、108部限定版。
- Starry Adventure (1931年)- 小説。
- Experiences Facing Death (1931年)- 随筆。
- Earth Horizon (1932年)- 自伝。三人称で自己を語るユニークな形式。
- One-Smoke Stories (1934年)- 短編集(死後出版)。
- Can Prayer Be Answered? (1934年)- 随筆(死後出版)。
思想・考え方
オースティンには、人間・自然・先住民の知恵が分かちがたく結びついているという世界観がある。彼女にとって砂漠は「何も持たない土地」ではなく、独自のリズムと精霊性を備えた生命に満ちた空間であった。この自然観はラルフ・ウォルドー・エマーソンやジョン・ミューアの超越主義と共鳴しつつも、先住民の宇宙観を取り込んだ独自のものであった[15]。
フェミニズムにおいては、「女性が男性と同じ視点で世界を見る能力」を求めるのではなく、「異なる視点で世界を見ることの重要性と正当性」を主張した。これは同時代のフェミニズム運動の中でも独自の立場であり、自然との結びつきを女性固有の強みとして肯定する「エコフェミニズム」の先駆とも評価されている[16]。
また先住民文化に対しては、外部からの記録・保存にとどまらず、その詩歌・芸術・精神性を現代の表現に「再表現」することを通じて、生きた文化として継承しようとした。オースティンはアメリカ先住民の芸術・工芸・文化を守る運動に積極的に参加し、先住民の土地権利の擁護にも尽力した[17]。
自伝『地平の大地』においては、自己を「I-Mary(アイ・メアリー)」と名付け、三人称で自己を語ることで、個人の経験を超えた普遍的な女性の物語として昇華しようとした[18]。