モット・アンド・ベーリーの誤謬
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モット・アンド・ベーリーの誤謬(-ごびゅう、英語: motte-and-bailey fallacy、名称はモット・アンド・ベーリー城に由来)は、論証の一形式であり、論者が類似性のある2つの主張を戦略的に使い分ける(混同させる)非形式的誤謬である。2つの主張とは、ささやかで防御しやすいもの(「モット」)と、はるかに論争的で防御しにくいもの(「ベーリー」)である[1]。論者は論争的な主張を提示するが、異議を唱えられると、よりささやかな主張のみを提示していると主張する[2][3]。モットに撤退した際、論者はベーリーが論破されていないと主張したり(批評家がモットを攻撃しなかったため)[1]、批評家が不合理である(ベーリーへの攻撃をモットへの攻撃と同一視することによって)と主張したりすることがある[4]。

この用語を造語した哲学者のニコラス・シャッケルは[1]、「誤謬」ではなく、モット・アンド・ベーリー「教説」(doctrine)と呼ぶことを好んでいる[3]。2005年、シャッケルは中世の城の防衛への言及を以下のように説明した[2]。
モット・アンド・ベーリー城は中世の防衛システムであり、盛り土の上の石塔(モット)が、ある程度の土地(ベーリー)に囲まれ、そのベーリーもまた堀などの障壁で囲まれている。暗くてじめじめしているため、モットは好んで居住する場所ではない。その存在理由はひとえにベーリーの望ましさにあり、モットと堀の組み合わせによって、略奪者の攻撃を受けてもベーリーを維持することが比較的容易になるからである。攻撃が激しくない場合、堀のおかげで少数の攻撃者を撃退するのは容易である。攻撃が激しい場合、堀は防御しきれず、したがってベーリーも防御できない。その代わり、不衛生だが防御可能な、おそらく難攻不落のモットへと撤退する。最終的に略奪者が諦めれば、望ましい土地を再占領するのに適した位置にいることになる。
[ベーリーは] 同様の性質を持つ哲学的教説や立場を表している。すなわち、提案者にとっては望ましいが、防御は手薄である。モットは、激しく攻められた際に撤退する、防御可能だが望ましくない立場である。
シャッケルが当初意図していたのは、ミシェル・フーコー、デヴィッド・ブルア、ジャン=フランソワ・リオタール、リチャード・ローティ、バーガーとルックマン(『現実の社会的構成』[注釈 1])などの学者の著作や、ポストモダニストの言説全般に見られる、彼が欺瞞的であるとみなした論証プロセスを批判することであった[2][4]。 モット・アンド・ベーリーの概念は、2014年にブログ『Slate Star Codex』で普及した[4]。
モット・アンド・ベーリーの概念は、2014年にスコット・アレクサンダーのブログ『Slate Star Codex』で取り上げられたことで、インターネット上の言論において広く普及した[4]。アレクサンダーは、公共の議論において、活動家や提唱者が広く合意を得られる穏健な主張(モット)と、本来推進したい過激な主張(ベーリー)を戦略的に使い分けていると指摘した[5]。
例
シャッケルが挙げた例の一つに、「道徳は社会的に構築されたものである」という言明がある。この例では、モットは「善悪に関する我々の信念は社会的に構築されたものである」という主張であり、ベーリーは「善悪というものは存在しない」という主張である[3]。 シャッケルによれば、デヴィッド・ブルアの科学知識の社会学におけるストロング・プログラムは、広く受け入れられているが現実に反する信念と、現実に即した信念を区別することなく、知識を「人々が知識とみなすもの」として擁護しようとする際に、モット・アンド・ベーリー教説を利用していた。この場合、容易に防御できるモットは「我々が知識と呼ぶものは、一般的にそのように受け入れられているものである」という主張であるが、本来主張したいベーリーは「科学的知識は他の広く受け入れられている信念と何ら変わらない」という主張であり、科学的知識を得る上で真理や現実は役割を果たさないことを暗示している[2]。
関連概念
この誤謬は、多義語の誤謬、より具体的には概念のすり替え(concept-swapping)の一例として記述されている。これは、聴衆に気づかれないように一つの概念を別の概念に置き換えることである[6]。 シャッケルは元の論文において、ミシェル・フーコーが「当たり前の概念に対する深遠かつ繊細な分析を与えている」という幻想を作り出すために、「真理」や「権力」といった本質的に論争のある概念の恣意的な再定義[2]を用いたと論じた[2]。シャッケルは、用語の広範で口語的な理解と、技術的で人工的に規定された理解を戦略的かつ修辞的に合成(conflation)するこのタイプの手法を「ハンプティ・ダンプティ法」と名付けた。これは『鏡の国のアリス』における、「私が言葉を使うときは、私が選んだ通りの意味になる。それ以上でもそれ以下でもない」という登場人物のやり取りにちなんでいる[2]。 シャッケルの説明では、モット・アンド・ベーリー教説は、擬似深遠さ(pseudo-profundity)[2]によって部外者を圧倒することに依存しており、これはダニエル・デネットがdeepityと呼んだものによく似ている[3]。
既存の、おそらく非常に微妙な意味の違いを利用する通常の多義語の誤謬の例とは異なり、ハンプティ・ダンプティ法は全く微妙ではない。意味の違いがあまりに明白であるため、それらを利用して多義的に振る舞うことは、通常、最初に聴衆を軟化させなければ遂行できない。この軟化は、二重の意味が何らかの形で深遠さの提示であると聴衆に信じ込ませることによって行われる。...その戦略は、フーコーの「真理と権力」のように、まず再定義された意味でその言葉を使用し、次にその再定義があたかもその概念のより深い内容として既に確立されているかのように提示することである。最後に、両方の意味を同時に省略する一節によって、深遠さの印象が決定づけられる。[2]
批判的分析
シャッケルによるモット・アンド・ベーリー概念の使用に対し、修辞学教授のランディ・アレン・ハリスは異議を唱えた。ハリスは、この概念が他者の議論を歪曲し、攻撃に必要な範囲を超えて相手の立場を理解しようとしないことで、寛容の原則を不当に侵害するために使われているとみなした。ハリスは、モット・アンド・ベーリー概念のそのような使用法を、相手を不当に描写することで「真の戦いを避けている」と批判し、これを相手が防御的なモットへ撤退することに対する「攻撃的な帰結」と呼んだ[7]。言い換えれば、モットに撤退したとして誰かを攻撃する人物は、「ベーリーに出て」他者とより深い対話に従事する代わりに、「攻城兵器(siege engine)」に撤退しているという点で「同様に有罪」である可能性がある[7]。ハリスは、不一致をより慎重かつ敬意を持って探求する修辞的分析を求めた[7]。