ヤフヤ・ラヒーム・サファヴィ
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1971年からタブリーズ大学地質学科に入学するが、本人の証言によれば反帝政活動を開始して国外逃亡し、レバノンやシリアで軍事訓練を受けたという[2]。レバノンを離れた後、フランス・ノーフル=ル=シャトーのルーホッラー・ホメイニーのもとに向かう。そこで革命家人脈を構築する[2]。
1979年のイラン革命直後、イスラム革命防衛隊のエスファハーンの作戦司令官に就任[2]。同年コルデスターン州で革命政府に反乱を起こしたクルド人民兵の鎮圧にあたった[2]。イラン・イラク戦争が開戦すると南部作戦司令官に任じられ、さらにイスラム革命防衛隊陸軍司令官に任じられた。ハーシェミー・ラフサンジャーニーの証言によれば、アル・ファオ半島をイラク軍に落とされた際、サファヴィの処刑が一時検討されたという。「彼はアル=ファオをすべての施設と装備とともに放棄し、血で得た橋を渡って逃げ、それを敵に残した」ためという[2]。
1997年にモフセン・レザーイーが革命防衛隊総司令官を退任した際、レザーイーは、アリ・シャムハニか、ゴラム・アリ・ラシッドを後任に推薦したが、最高指導者アリ・ハメネイの決定により当時副司令官だった彼が革命防衛隊総司令官に就任した[2]。
サファヴィの時代に革命防衛隊内ではバスィージが権力と影響力を拡大させた[2]。
1999年イラン学生抗議運動の際、改革派・穏健派のモハンマド・ハータミー大統領は、弾圧や人権侵害を嫌がり、介入を拒否しようとしたが、サファヴィがそれに強く抗議し、最終的にハサン・ロウハーニーと最高指導者ハメネイの承認を得て、革命防衛隊がテヘラン大学の学生寮を襲撃。弾圧が実行に移された[2]。
前任レザーイーは本人が辞職を願い出るまで総司令官に在任し続けていたが、サファヴィは、ハメネイが任命した他の大半の高官と同様に10年間の任期を務めて退任した[2]。