ヤロスラフ1世
キエフ大公国の君主
From Wikipedia, the free encyclopedia
父親の薨去まで
兄との戦い、そして大公位獲得へ
→「ルーシ内戦 (1015年-1019年)」も参照

国内における活動、対外活動
彼の内政面で特記すべきは、『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典)の編纂だろう。恐らくはそれまで口述で伝わっていたルーシの慣習法の一部を成文法化した。この法は、補則・改定を受けながら、16世紀頃まで利用されていた形跡がある。
また、彼は現存するキーウのソフィア聖堂を建設した。但し近年の研究では、それ以前に木造のソフィア聖堂が存在していたと考えられている。現在の聖堂は三代目のものであるとされる。
加えて彼の時代、初めてキーウ府主教にルーシ人(イラリオン)が選出された。それまでの府主教は例外なく東ローマ帝国出身のギリシア人聖職者であった。
出自
家族
妻
- アンナ? - おそらく、最初の妻はアンナという名のノルウェーの女性である。アンナは1018年にキーウが陥落した際に、ヤロスラフの姉妹と共にポーランド王ボレスワフ1世に捕らえられ、ポーランド王国へ連れ去られた。アンナは生涯ルーシに戻ることはなかった[1]。
- インゲゲルド(インゲヤードゥ[2])(ru)(聖名イリーナ、修道女としてはおそらくアンナ) - 2人目の妻はスウェーデン王オーロフの娘[3]。インゲゲルドとの間に生まれた娘たちはヨーロッパ各地の王家に嫁ぎ、また息子たちもルーシ外から妻を迎えている。
息子
- イリヤ - おそらくアンナの子であり、ノヴゴロド公だったという仮説がある。
- ウラジーミル - ノヴゴロド公。
- イジャスラフ - トゥーロフ公、ノヴゴロド公、キーウ大公。ポーランド王カジミェシュ1世の姉妹(ミェシュコ2世娘)のゲルトルーダ(ru)と結婚。
- スヴャトスラフ - チェルニゴフ公、キーウ大公。おそらく2回結婚しており、最初の妻はキーリキヤ(またはキキリヤ、ツェツィリヤ)[注 2]という女性であるが、その出自は不明である、おそらく2人目の妻はハンガリー辺境伯レオポルト(バーベンベルク家)の娘・オダ(ru)。
- フセヴォロド - ペレヤスラヴリ公、チェルニゴフ公、キーウ大公。ビザンツ皇女(おそらくビザンツ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘)と結婚(ウラジーミル・モノマフの父)。
- ヴャチェスラフ - スモレンスク公。[注 3]
- イーゴリ - ヴォルィーニ公、スモレンスク公。[注 4]
娘
- アガタ?(ru) - イングランド王家のエドワード・アシリングの妻。その出自には諸説あり、一説にはヤロスラフの娘とするものがある[注 5]。