ヤヴォリウの木製玩具
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ウクライナ語名に含まれる「забавка」は、子どもを楽しませたり、あやしたりするものを指す[3][1]。地元では、護符のようなものとも考えられてきた[3]。
主としてヤマナラシ材で作られ、ヤヴォリウ地方特有の絵付けである「ヴェルビウカ」(вербівка)で彩られる[3][1][4]。この絵付けには、柳の枝や葉を思わせる文様のほか、楕円形の囲み文様(カチェチュカ)、小花文様(クヴィートチュカ)、花形文様(ルージャ)、ロゼット文様(ロゼトカ)、同心円文様(コルコ)、太陽文様(ソネチコ)などがある[1][3][4]。
配色は赤と緑を基本とし、黄色が地色や線として加えられる[1][4]。白、茶、黒は細部表現に用いられる[1]。青については、導入時期に1920年代説と戦後説があり、空色系の点や線として加えられることがある[1]。
歴史
ヤヴォリウ地方で玩具がいつ作られ始めたかを示す確実な史料は残っていないが、その起源は17世紀にさかのぼると考えられている[1][5][4]。ヤヴォリウでは15世紀にはすでに木工組合が活動し、工芸生産や市が行われていた[1]。初期の玩具は木工房や家庭内の工房で作られていた[1][4]。
18世紀には木製玩具の手工業的生産が始まり、19世紀半ばに最盛期を迎えた[6]。19世紀初頭の『工業案内』では、89家族がこの仕事に従事し、各家族が年間ほぼ3600個の玩具を作っていたと記されている[3]。玩具家具、がらがら、馬付きの荷車、ゆりかご、ヴァイオリンなどが代表的な製品であった[3][6][4]。
1896年11月には専門の玩具学校が設立され、ヤヴォリウの木製玩具はより高度な工芸として発展した[1][4]。1905年に同校は新校舎へ移転し、「国家木工学校」に改称された[1]。1930年には販売のための協同組合も設けられた[1]。19世紀末から20世紀初頭にかけては、安価な工場製玩具との競争により、伝統的な手工業生産は次第に衰退した[6][3][4]。
20世紀以降
1920年代から1930年代にかけては、自動車や飛行機を模した玩具も作られるようになり、彩色にも変化が生じた[6][1][4]。植物由来の染料に代わって工業製塗料やアクリル絵具が用いられるようになり、1920年代の統計では75家族が伝統的な玩具製作に従事していた[1]。
第二次世界大戦後の1946年にはヤヴォリウ職業学校が開設され、1954年に美術工芸職業技術学校へ改称、1960年に再編、1963年にはイヴァノ=フランコヴェへ移転した[1]。現在のヨースィプ・P・スタニコ記念芸術職業技術学校はその系譜を引く学校であり、スタリチ村の教育工房「マスターク」も継承拠点の一つである[1]。
戦後にはT・H・シェフチェンコ児童玩具製造アルテリが、馬、荷車、鳥、蝶、人形、笛などの玩具を生産した[6][4]。20世紀後半にも地元の作り手によって製作と継承が続けられ、作品は展覧会に出品され、博物館にも収蔵された[6][1][4]。
ノヴォヤヴォリウシクの郷土博物館はヤヴォリウの木製玩具の収集と絵付け講習の拠点であり、ウクライナ国立科学アカデミー民族学研究所民族学・工芸博物館には大規模な収蔵がある[3][7]。



