ユーグ・ド・フォコンベルグ

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死亡 1105年/1106年
埋葬 ナザレ
ユーグ・ド・フォコンベルグ
Hugues de Fauquembergues
ユーグの死を描いた挿絵

在位期間
1101年–1105年/1106年
先代 タンクレード
次代 ジェルヴェ・ド・バゾシュ英語版

死亡 1105年/1106年
埋葬 ナザレ
信仰 ローマ・カトリック
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ユーグ・ド・フォコンベルグ仏語Hugues de Fauquembergues, / Hugh of Falkenberg, / Hugh of Falchenbergラテン語Hugo de Falchenberch、 1105年/1106年没)とは、11世紀末から12世紀初頭にかけて活躍した十字軍貴族・ガリラヤ公英語版(在位:1101年 - 1105/1106年)である。ユーグ・ド・サントメール仏語Hugues de Saint-Omer)とも呼ばれる。彼は第1回十字軍に加わる前はフォコンベルグ英語版の領主であった。第2代エルサレム王ボードゥアン1世は、対立者であった初代ガリラヤ公タンクレードが自発的に領地を放棄したことを受け、ユーグにガリラヤを授与した。ユーグはファーティマ朝に対する戦いで王を助け、セルジューク朝の領土への略奪を繰り返した。彼はトロン英語版およびシャステル・ヌフ(現在のテブニーン英語版およびフニーン英語版)の両要塞を築いた。彼はダマスカスアタベクであるトゥグテキンロシア語版との戦いの中で没した。

ユーグの親族関係は不明であるが、12世紀の年代記作者ギヨーム・ド・ティールが彼を「Hugo de Sancto Aldemaro」と呼んでいることから、有力な世襲のサントメール城主英語版の一族の出身であったことが示唆される[1][2]。彼は近隣のフォコンベルグ英語版の領主であった[3]。作者不明の当時の詩には、テルアンヌ司教区英語版からの最初の十字軍参加者の中にユーグの名が挙げられている[4]。彼がいかなる従者の列に加わって聖地に到達したかを記す一次史料は存在しないが[4]ボードゥアン・ド・ブローニュ(後のボードゥアン1世)[5]あるいはフランドル伯ロベール2世に同行したと考えられている[6]。ボードゥアンとその兄である下ロレーヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨンは1096年8月15日に十字軍へと出発し、フランドル伯ロベール2世は約1ヶ月後にこれに続いた[7]

1098年3月9日にボードゥアンがエデッサを掌握すると[8]、ユーグはこの町の周辺に形成された伯国に定住した[6]。彼はボードゥアンの最も信頼厚い家臣の一人であった[6]。1100年7月18日、エルサレムの統治者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンが没すると[9]、ボードゥアンはゴドフロワの遺産に対する自身の権利を確保するため、ユーグをエルサレムへと派遣した[6]。ユーグとロベール司教英語版ダビデの塔を制圧し、彼のおかげで、11月9日、ボードゥアンがエルサレムへの入城を敢行した[6][10]

1100年12月25日、ボードゥアンは王として戴冠した[10]ガリラヤ公英語版タンクレードはボードゥアンを王として認めなかったが、両者の衝突は間もなく解決を見た[11]アンティオキア公国の貴族らがタンクレードのもとを訪れ、セルジューク軍に捕らえられたアンティオキア公でかつタンクレードの親族であったボエモン1世に代わって公国の統治を引き受けるよう求めた[12]。タンクレードはこの申し出を受け入れ、1101年3月にガリラヤ英語版を放棄したが、その際、もし15ヶ月以内に王国へ戻った場合には、王が同じ土地を「封土として」自身に再授与すべきであるという条件を付した[11]

ガリラヤ公

ユーグによって築かれたトロン の要塞跡

1101年3月、ボードゥアン王はタンクレードの広大な封土を二分した。彼はティベリアスとその周辺地域をユーグに授与したが、一方でハイファについては、既にタンクレードに対してその権利を主張していたゲルデマール・カルペネル英語版に与えた[11][13]

1101年9月初旬、エジプト軍が南からエルサレム王国へと侵攻した[14]。ボードゥアン王は9月7日の夜明け、ラムラ近郊で侵略者を攻撃する決断を下した[15]。彼は軍を5つの部隊に分け、ユーグを第3部隊の指揮官に任命した[16]。エジプト軍は十字軍の最初の2部隊を全滅させ、ユーグとその部隊もまた打ち破った[16]。戦いは敗北に終わったと考えたユーグは戦場を脱し、王妃(伝統的にアルダ英語版と呼ばれる)に惨状を報告するためヤッファへと急行した[16]。しかしながら、王がエジプト軍に対して奇襲を仕掛けてこれを撃破したため、戦いは敗北ではなかった[16][17]

1102年5月、エジプト軍が王国に対して新たな侵攻を開始した[18]。ユーグと80人の騎士は王軍を支援するためガリラヤから急行したが、5月19日に彼らがアルスフ英語版に到達した頃には、既にラムラにおいて十字軍はエジプト軍に敗北していた[19]。アルスフにおいて、彼らは新たな軍勢を募るために戦闘前に脱出していた王と合流した[20]。エジプト軍は王妃の滞在するヤッファを包囲した[21]。王はイングランド人の冒険者の船でアルスフからヤッファへと航行し、一方でユーグとその部隊は海岸線を騎行した[20]。エジプト軍は王の入城を阻止できず、王はユーグとその家臣らがヤッファ周辺のエジプト軍を突破するのを助けた[20]。数百人のイングランド、フランス、イタリアの巡礼者らの到着によりボードゥアンは反撃できるだけの兵力を確保でき、5月27日、エジプト軍に包囲を解かせることに成功した[17][22]

1105年秋、ユーグはムスリムの統治者らに対して攻撃的な政策を追求した[23]。彼はダマスカスとティルス間の街道を制御するため、トロンとシャステル・ヌフの両要塞の建立を命じた[24][25]。これら2つの城は同年の秋に完成した[23]

1105年/1106年、ユーグは間もなくシャステル・ヌフ以遠の地域に対して略奪戦を仕掛けた[23]。彼が多くの戦利品を手にガリラヤへと帰還する途上、ダマスカスのアタベクであるトゥグテキンロシア語版が彼を待ち伏せした[5][23]。小競り合いの最中、一本の矢がユーグを射抜き、彼は没した[5]。トゥグテキンは直後にシャステル・ヌフを占領した[23]。ユーグの兄弟ジェラールもその後長くは生き永らえなかった[23]。『ウトラメールの系譜英語版』によればユーグには2人の娘がいたが、ガリラヤは北フランス出身の騎士ジェルヴェ・ド・バゾシュ英語版に授与された[5][26]。ユーグはナザレに埋葬された[6]

出典

参考文献

外部リンク

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