サントメール (パ=ド=カレー県)
From Wikipedia, the free encyclopedia
サントメール (Saint-Omer)は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、パ=ド=カレー県のコミューン。
| Saint-Omer | |
|---|---|
|
| |
| 行政 | |
| 国 |
|
| 地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
| 県 (département) | パ=ド=カレー県 |
| 郡 (arrondissement) | サントメール郡 |
| 小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
| INSEEコード | 62765 |
| 郵便番号 | 62500 |
| 市長(任期) |
ブリュノ・マニエ (2008年 - 2014年) |
| 自治体間連合 (fr) | fr:communauté d'agglomération de Saint-Omer |
| 人口動態 | |
| 人口 |
14 893人 (2009年) |
| 人口密度 | 908人/km2 |
| 住民の呼称 | Audomarois |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯50度44分46秒 東経2度15分42秒 |
| 標高 |
平均:m 最低:0 m 最高:27 m |
| 面積 | 16.4km2 |
| 公式サイト | http://www.ville-saint-omer.fr/ |
地理
交通
語源
サントメールとは、アウドマルス(Audomarus)に由来する。彼はクタンス出身でリュクセイユの修道士で、637年にテルアンヌの司教となった。彼はサン=ベルタン修道院を建て、その周囲にまちが発展していった。彼は667年か668年に亡くなり、遺灰はテルアンヌからノートルダム教会へ移され、以後彼の名でコミューンは呼ばれた。
歴史



サントメールは7世紀、シチュー(Sithiu、Sithieu、Sitdiu)の名で文筆家の書物の中に現れている。まちはアウドマルス指揮のもとつくられたサン=ベルタン修道院の周りで成長していた。ベルタンとは、アウドマルスの同志として働いた者の名である。10世紀から現在のサントメールとなった。カール大帝時代には、海港であったサントメールは海側からの侵攻にあっている。当時、海側のフランドル地方都市はカレーの一部も含め、まだ海の下にあった。
932年、まちはフランドル伯領となった。12世紀から13世紀、サントメールで織物産業が花開いた。大いなる繁栄の時代、中世コミューン機関から恩恵を受けた初期のまちであった。それはおそらく1070年代初頭である[3]。これらの機関は自助団体であり、兄弟会の形態が常態化され、商人組合がその後生まれた[4]。これらのコミューンはフランドル伯から3つの自由を授けられた[5]。その後、織物産業首位の座をブルッヘに明け渡すことになった。1165年からアー川をグラヴリーヌへ向けて掘った。泥の堆積がサントメールの外港で進行していたからだった。11世紀から12世紀のサントメール商人たちは組合を結成した[6]。
1212年のポンタ・ヴァンダン条約でフランドル伯領からアルトワ伯領となった。サントメールを取り戻そうとしたフランドル伯フェランはブーヴィーヌの戦いで敗北した。その後フランス化が始まり、公文書はフランス語で書かれ、フランドル語(フラマン語)は少なくとも住民の生きた言葉でなくなっていた。13世紀の年代記作家ギヨーム・ダンドレスは、当時の商取引はフランドル語だったと記している。サントメールは低地諸国の広範囲の経済網の中にあったが、公式には分離していた。1300年頃の人口は400人ほどに達していた[7]。
1384年、サントメールはブルゴーニュ公国に組み込まれた。ブルゴーニュ公位はやがて神聖ローマ皇帝カール5世が継承した。彼の退位後、サントメールはスペイン支配化の代官区となった。15世紀の疫病流行では1500人の住民の命が失われた。16世紀のカトリックによる対抗改革により、サントメールの都市計画は宗教色が強められた。サントメールは、イングランドやワロン語地域からの多くのコレージュや神学校開設を歓迎した。1559年から1790年までサントメールにはカトリックの司教座があったが、1801年にアラス司教座に移管された。1678年のナイメーヘンの和約で、サントメールはフランスに割譲された。1678年以後、ヴォーバン指揮のもとでサントメールの防衛設備強化が行われた。
1848年に鉄道が敷かれたが、サントメールにまだ産業革命は起きていなかった。広場、タウンホール、学校が築かれ、大通り建設のため防衛設備が壊された。
2つの大戦でサントメールは甚大な被害をこうむった。 第二次世界大戦のナチス・ドイツのフランス侵攻の過程では、1940年5月24日の夜、カレーを目指すドイツ国防軍装甲自動車部隊により突破、占領された[8]。1942年、ナチス・ドイツはサントメールにコンクリート製トーチカを建設した。この設備はもともとV2ロケット基地として築かれた。設備は連合国側の爆撃で破壊された。サントメールが解放されたのは1944年9月5日、ポーランド軍第1装甲師団(fr)によってであった。
経済
サントメール経済は水の周りで発展した。コミューン周囲に広がるオドマロワ湿地は農業や園芸農業、観光業の発展を支えてきた(特にカリフラワー栽培が有名)。サントメールにはビール醸造所が点在する。
史跡
出身者
- ピエール・デュポン - 指揮者