ヨシュア・トゥリー
U2のアルバム
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『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)は、アイルランドのロックバンド、U2が1987年3月9日に発表した5枚目のスタジオ・アルバム。前作『焔』に引き続き、ブライアン・イーノとダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えて制作された。
アンビエント的なサウンドアプローチを試みた前作から一転し、ブルースやカントリーといったアメリカやアイルランドのルーツ・ミュージックに強く影響を受けた、より力強く地に足の着いたストレートなロック・サウンドを展開している。歌詞の面では、ボノが中南米(エルサルバドルやニカラグア)への訪問で目の当たりにした政治的抑圧への怒りや、アメリカという国が持つ「神話的な理想」と「厳しい現実」の二面性に対するバンドの複雑な感情が色濃く反映されている。また、ツアー中に急死した親友のローディー、グレッグ・キャロルへの哀悼など、深い精神性と社会的なメッセージが共存する傑作となった[1]。
リリースされるや否や、世界中で爆発的な大ヒットを記録し、アメリカとイギリスの両国でチャート1位を獲得した。「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイムといった音楽史に残る名曲を生み出し、全世界での累計売上は2500万枚を超える。
1988年の第30回グラミー賞では「最優秀アルバム賞」を受賞し、U2を世界最大のロックバンドへと押し上げた記念碑的作品である。『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』において、27位にランクイン[2]。
2014年には、「文化的、歴史的、または美学的に重要である」として、アメリカ議会図書館の全米録音資料登録簿に永久保存された。
概要
制作背景

『ヨシュア・トゥリー』は、U2がそれまでの音楽性をさらに発展させ、アメリカの音楽や文学、社会問題を積極的に取り込んで制作したアルバムである。1984年の『焰』以降、バンドはアメリカでの活動を重ねる一方、アフリカの飢餓や貧困、アパルトヘイト、中央アメリカの紛争など、さまざまな社会問題にも関心を深めていった。1984年にはボノとアダム・クレイトンが「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」に参加し、1985年にはライヴ・エイドや反アパルトヘイト・プロジェクト「サン・シティ」に関わった。さらに1986年には、アムネスティ・インターナショナルの慈善ツアー「コンスピラシー・オブ・ホープ」に参加している[3]。
ルーツ・ミュージックとアメリカ文化

この時期、U2はアメリカへの関心を強めていった。ボノの頭の中には「現実のアメリカ」と「想像上のアメリカ」という二つのアメリカを対比させるという漠然としたコンセプトがあった[4]。また、ボノはヴィム・ヴェンダースの『エモーション・ピクチャーズ』を読み、アメリカがポピュラー・カルチャーを通じて世界の人々の無意識を「植民地化」してきたというヴェンダースの考察にも影響を受けていた[5]。
ボノはアメリカ文学に傾倒し、フラナリー・オコナー、ノーマン・メイラー、レイモンド・カーヴァーらの作品を読み、アメリカという「約束の地」の表面的なイメージだけではなく、そこに生きる普通の人々や社会の周縁に追いやられた人々を理解しようとしていた[3]。
音楽面では、ボブ・ディランやキース・リチャーズとの交流が大きな刺激となった。特にキース・リチャーズからジョン・リー・フッカーやロバート・ジョンソンらのブルースを聴かされたことは、ボノに強い衝撃を与えたという。U2はそれまでパンクやポストパンクの影響を強く受けていたが、こうした経験を通じてブルース、ゴスペル、フォーク、カントリーなど、アメリカ音楽のルーツへと遡っていった[3]。
また、アイルランドの音楽シーンとの交流も重要だった。ホットハウス・フラワーズやザ・ウォーターボーイズらがアイルランドの伝統音楽と現代的なロックを結びつけようとしていたことも、U2が自らの音楽的ルーツを考え直すきっかけとなった。こうして『ヨシュア・トゥリー』では、ブルースやゴスペル、フォーク、カントリーなどの要素がU2独自のロック・サウンドへと取り込まれていった[3]。
レコーディング
レコーディングは1986年初頭から始まり、ダブリン郊外ラスファーナムのデーンズモート・ハウスを中心に、ウィンドミル・レーン・スタジオやジ・エッジの自宅「メルビーチ」などを使って行われた。デーンズモート・ハウスはジョージ王朝様式の大邸宅で、通常のスタジオとは異なる広い空間を利用することで、『焰』のスレーン城での制作と同様、開放的な音響を得ることが意図されていた[3]。
アダム・クレイトンによれば、バンドはバッキング・トラックをできるだけ全員でライブ演奏する形で録音することを望んでいた。特にデーンズモート・ハウスの大きな部屋は豊かな残響を持ち、アルバムを特徴づける巨大なドラム・サウンドの形成に大きく貢献した。ダニエル・ラノワも、デーンズモートでのセッションがアルバム全体の音色の「背骨」になったと説明している[3]。
1986年6月、U2はコンスピラシー・オブ・ホープ・ツアーへの参加のためレコーディングを一時中断した。ツアー後の8月からはウィンドミル・レーン・スタジオ、デーンズモート・ハウス、メルビーチを行き来しながら制作を再開し、「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」や「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」などがメルビーチで形になった。この時期にはロビー・ロバートソンもダブリンを訪れており、ダニエル・ラノワのプロデュースによるソロ・アルバムの制作を行っていた。ロバートソンとU2はこのセッションで「Sweet Fire of Love」と「Testimony」を録音し、両曲は後にロバートソンのソロ・アルバムに収録された[6]。
1986年秋には新しいアイデアが次々と生まれたものの、ブライアン・イーノの提案によって一度セッションを切り上げ、完成を優先することになった。最終的な録音とミックスにはスティーヴ・リリーホワイトらも加わり、1987年初頭まで作業が続けられた。公式ディスコグラフィーでは、アルバムのプロデュースをブライアン・イーノとダニエル・ラノワ、エンジニアをフラッドが担当したとされている[3]。
アルバムタイトルの由来
アルバム制作当初の仮タイトルは「The Two Americas(2つのアメリカ)」だった。スリーブ・デザイナーのスティーヴ・アヴェリルによれば、このタイトルには、砂漠の風景と文明化された社会という、アメリカの二つの側面を対比する意図が込められていた。ボノとジ・エッジも後に、アルバムが「神話的なアメリカ」と「現実のアメリカ」の対比を捉えようとした作品だったと説明している。なお、制作段階では「The Desert Songs」という仮タイトルも使われていたとされる[7][8]。
その後、ジャケット撮影のためにカリフォルニア州の砂漠地帯を訪れた際、メンバーは移動中に独特な形をした植物を何度も目にした。運転手に「あれは何か」と尋ねたところ、それが「ヨシュア・トゥリー(Joshua tree)」と呼ばれる植物であることを知った。その名前に興味を持ったボノは、この木をジャケット写真に使うことを思いつき、メンバーは砂漠の中でヨシュア・トゥリーを探して撮影を行った[9]。
ヨシュア・トゥリーは、19世紀のモルモン教徒の開拓者たちによって、独特の枝の形が旧約聖書の登場人物ヨシュアが祈りのために手を広げている姿を思わせることから名付けられたとされる。この聖書に由来する名称は、信仰や精神性を作品の重要なテーマとしていたU2にとっても印象的なものだった[9]。
こうして、当初の「The Two Americas」という仮タイトルに代わって「The Joshua Tree」がアルバムの正式なタイトルとなった。砂漠の過酷な環境の中で生きるヨシュア・トゥリーは、アルバムに描かれたアメリカの広大な風景や孤独、信仰への渇望といったテーマとも重なり、作品全体を象徴する存在となった。ラリー・マレン・ジュニアは後に、この出来事を振り返り、「俺たちがヨシュア・トゥリーを探しに行ったのではなく、ヨシュア・トゥリーの方から俺たちを見つけに来たようなものだった」と語っている[9]。
社会・政治的テーマ
『ヨシュア・トゥリー』では、アメリカへの憧れと、その裏側にある社会的・政治的現実が並行して描かれている[3]。
「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」は、中央アメリカでの内戦とアメリカの軍事介入を背景としており、「レッド・ヒル・マイニング・タウン」はイギリスの炭鉱町を舞台に、産業の衰退と労働者の苦境を描いている。「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」は、アルゼンチンやチリの軍事政権下で行方不明となった人々と、その帰還を求める母親たちを題材としている[3]。
一方で、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」や「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」のような個人的・宗教的なテーマを持つ楽曲も収録されており、アルバム全体が政治的メッセージだけで構成されているわけではない。むしろ、アメリカという土地への憧れ、宗教的な探求、愛、喪失、社会的不正義といった異なるテーマを、同じ音楽的世界の中に共存させたことが特徴となっている[3]。
この性格は、アルバム終盤の曲順にも表れている。「エグジット」では精神的な崩壊や狂気の暗部が描かれ、その後に「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」が置かれることで、アルバムは個人の内面から社会的な悲劇へと視点を広げながら静かに幕を閉じる[3]。
商業的成功

『ヨシュア・トゥリー』は1987年3月9日に発売され、世界各国でチャート1位を獲得した。U2の公式サイトによれば、アルバムには「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム」など、後にバンドを代表する楽曲となる作品が収録され、全世界で2000万枚以上を売り上げた[3]。
発売当時、アメリカの『TIME』誌はU2を表紙に取り上げ、「Rock's Hottest Ticket」という見出しを掲げた。U2はこのアルバムによって、それまでのポストパンク・バンドという位置づけを越え、世界最大級のスタジアム・バンドへと飛躍した[3]。
『ヨシュア・トゥリー』は第30回グラミー賞で最優秀アルバム賞と最優秀ロック・パフォーマンス賞(グループ)を受賞し、U2の商業的成功と音楽的評価の双方を決定づける作品となった。その後のU2にとっても、アメリカのルーツ・ミュージックとアイルランドの音楽的背景、個人的・宗教的な探求、そして1980年代の政治的・社会的現実を融合させた本作は、最も重要な転機の一つとなった[3]。
収録曲
オリジナル盤
全曲 作詞:ボノ、作曲:U2
| # | タイトル | 時間 |
|---|---|---|
| 1. | 「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネイム(約束の地)」(Where the Streets Have No Name) | |
| 2. | 「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー(終りなき旅)」(I Still Haven't Found What I'm Looking For) | |
| 3. | 「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With or Without You) | |
| 4. | 「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」(Bullet the Blue Sky) | |
| 5. | 「ランニング・トゥ・スタンド・スティル」(Running to Stand Still) | |
合計時間: | ||
| # | タイトル | 時間 |
|---|---|---|
| 1. | 「レッド・ヒル・マイニング・タウン」(Red Hill Mining Town) | |
| 2. | 「イン・ゴッズ・カントリー(神の国)」(In God's Country) | |
| 3. | 「トリップ・スルー・ユア・ワイアーズ」(Trip Through Your Wires) | |
| 4. | 「ワン・トゥリー・ヒル」(One Tree Hill) | |
| 5. | 「エグジット」(Exit) | |
| 6. | 「マザーズ・オブ・ザ・ディサピアード」(Mothers of the Disappeared) | |
合計時間: | ||
25周年記念盤
30周年記念盤
『クラシック・アルバムズ:ヨシュア・ツリー』
『クラシック・アルバムズ:ヨシュア・ツリー』(Classic Albums: The Joshua Tree)は、イギリスの音楽ドキュメンタリー・シリーズ『Classic Albums』の一作。U2の5作目のスタジオ・アルバム『ヨシュア・トゥリー』の制作過程を、メンバーへのインタビュー、当時のアーカイブ映像、レコーディング映像などを通して振り返るドキュメンタリーである。監督はフィリップ・キングとヌアラ・オコナー[10][11]。
本作では、ボノ、ジ・エッジ、アダム・クレイトン、ラリー・マレン・ジュニアらが『ヨシュア・トゥリー』の制作を振り返るほか、プロデューサーのブライアン・イーノ、ダニエル・ラノワ、エンジニアのフラッドらも制作過程について証言している。『ヨシュア・トゥリー』は、前作『焔』でも制作を担当したイーノとラノワを再びプロデューサーに迎えて制作された。エンジニアとしてフラッドが参加し、追加エンジニアリングをデイヴ・ミーガンとパット・マッカーシーが担当した[12]。
記念行事

2007年には20周年記念として、リマスター盤が発売された。限定版のスーパー・デラックス・エディションにはシングルのB面曲、未発表曲が収録されたボーナスCDと、1987年7月4日にパリのヴァンセンヌ競馬場で行われたライブが収録されたDVDがセットになっている。
2013年にはアメリカ議会図書館が毎年公表している全米録音資料登録簿(将来に渡って保存すべき録音資料)に、2013年分の登録作品のひとつとして選ばれた[13]。
2017年6月2日には30周年記念盤が発売された。通常盤は2007年のリマスターと同仕様。デラックス盤には1987年のマディソン・スクエア・ガーデン公演(音源未発表)を収録したディスク2が付属し、スーパー・デラックス盤には2017リミックスやB面曲・アウトテイクが付属する[14]。
2017年5月から10月にかけて、ヨシュア・トゥリー・ツアー2017全50公演が行われ、約270万枚のチケットが売れ、約360億円の興業収入を挙げた[15]。当ツアーでは『ヨシュア・トゥリー』に収録されている11曲をトラックナンバー通りに演奏するという試みが行われ、ライブで演奏されたことのない「レッド・ヒル・マイニング・タウン」も初披露された[16]。ステージには縦41m×横61mの超大型8KLEDスクリーンがセットされ[16]、アルバムジャケットを撮影したアントン・コービンによる映像が投影される。
2019年にはオセアニア・アジア地域をまわるヨシュア・トゥリー・ツアー2019を開催し、13年ぶりの日本公演を行った[17]。
批評
『ヨシュア・トゥリー』は1987年3月の発売直後から、U2のキャリアを代表する作品として極めて高い評価を受けた。『Rolling Stone』は同作を「U2の最も多様で、繊細で、親しみやすいアルバム」と評価し、従来のU2の力強さを維持しながら、より幅広い音楽的・感情的な表現を獲得した作品と論じた[18]。
『ロスアンゼルス・タイムズ』のロバート・ヒルバーンはさらに強い評価を示し、U2を「ローリング・ストーンズが何年も前に失ったものを持つ、世界最高のロックンロール・バンド」と評した。また、『ヨシュア・トゥリー』について、アメリカの音楽的伝統を取り込みながらも、単なるアメリカ文化の模倣ではなく、U2独自の音楽として消化している点を高く評価した[19]。
『シカゴ・トリビューン』のダニエル・ブローガンも、U2が1980年代後半から1990年代初頭にかけて最も影響力のあるバンドの一つになるだろうと予測し、『ヨシュア・トゥリー』をその転換点となる作品として評価した[20]。
この高い評価は商業的成功とも結びついた。アルバムはイギリスで初登場1位を記録し、アメリカでも1位を獲得した。U2は本作によって世界的なスーパースターの地位を確立し、「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」「アイ・スティル・ハヴント・ファウンド・ホワット・アイム・ルッキング・フォー」「ホエア・ザ・ストリーツ・ハヴ・ノー・ネーム」などが世界的なヒットとなった[21]。
発売から20年後の2007年には、リマスター盤の発売に際して改めて高い評価を受けた。『ピッチフォーク』は、本作によってU2が完全にスーパースターへと飛躍したとしながらも、単なる大規模なスタジアム・ロック作品ではなく、『焰』で培った実験性を整理し、アメリカの広大な風景や音楽文化を取り込んだ作品として評価した[22]。
現在では『ヨシュア・トゥリー』は、1980年代を代表するロック・アルバムの一つであると同時に、U2のキャリアにおける最高傑作の一つとして広く認識されている。2007年の再発時にも『Mojo』が5つ星を与え、『Q』は「スタジアム・ロックが適切な手にかかれば個人の心にも届くことを証明した」と評価しており、発売から数十年を経てもその評価は大きく揺らいでいない[23]。
評価
イヤーオブ
- 1987年ホットプレス年間ベストアルバム第3位[24]
- 1987年ホットプレス読者が選ぶ年間ベストアイリッシュアルバム第1位[25]
- 1987年ローリングストーン読者が選ぶ年間ベストアルバム第1位[26]
- 1987年ヴィレッジ・ボイスPazz & Jopアルバムリスト第4位[27]
- 1987年サウンズ年間ベストアルバム[28]
- 1987年NME年間ベストアルバム60第6位[29]
- 1987年Qマガジン年間ベストアルバム[30]
- 1987年Mojo年間ベストアルバム[31]
- 1987年Kerrang!年間ベストアルバム第9位[32]
- 1987年ライフ年間ベストアルバム[33]
- 1988年グラミー賞最優秀アルバム賞
- 1988年グラミー賞最優秀ロック・パフォーマンス デュオ/グループ
- 1988年第2回日本ゴールドディスク大賞・最優秀アルバム賞(洋楽・ロック・フォーク(グループ)部門)
オールタイム
- 1988年NME読者が選ぶオールタイムトップ100第20位[34]
- 1988年Ciao200101(イタリア)が選ぶベストアルバム100第7位[35]
- 1989年ロックスター(イタリア)が選ぶベストアルバム100第6位[36]
- 1989年Buscadero(イタリア)が選ぶ80年代ベストアルバム[37]
- 1989年レコード・ミラーが選ぶ80年代ベストアルバム第43位[38]
- 1989年ホットプレスが選ぶオールタイムベストアルバム100第1位[39]
- 1990年Buscadero(イタリア)が選ぶオールタイムベストルバム[40]
- 1990年Mucchio Selvaggio (イタリア)が選ぶ80年代ベストアルバム[41]
- 1990年ローリングストーンが選ぶ80年代ベストアルバム100第3位[42]
- ヴィレッジ・ボイスが選ぶ80年代ベストアルバム100第37位[43]
- ヴェルヴェット(イタリア)が選ぶ80年代ベストアルバム[44]
- 1991年スピンが選ぶオールタイムベストアルバム10第4位[45]
- 1993年タイムが選ぶオールタイムベストアルバム100第23位[46]
- 1994年「The Book of Rock Lists」が選ぶポストパンクアルバム150第101位[47]
- 1994年「The Book of Rock Lists」が選ぶベストナンバー1アルバム50第38位[48]
- 1994年ギネスが選ぶオールタイムトップアルバム1000第33位[49]
- 1994年ギネスが選ぶオールタイムトップアルバム総合チャート第48位[50]
- 1995年Qマガジンが選ぶ人生のアルバム100[51]
- 1996年Mojo読者が選ぶオールタイムベストアルバム100第45位[52]
- 1996年ゲイリー・グラフのエッセンシャルアルバムガイド収録アルバム[53]
- 1997年ガーディアンが選ぶオールタイムベストアルバム100第57位[54]
- 1997年チャンネル4が選ぶオールタイムベストアルバム100第19位[55]
- 1997年ローリングストーンが選ぶ重要なロックコレクション[56]
- 1997年ヴァージンメガストアが選ぶオールタイムベスト100第15位[57]
- 1998年ヴァージンが選ぶオールタイムベストアルバム1000第18位[58]
- 1998年Qマガジン読者が選ぶベストアルバム100第23位[59]
- 1998年スタジオ・ブリュッセル(ベルギー)の視聴者が選んだオールタイムベストアルバム第20位[60]
- 1999年VH1が選ぶオールタイムベストアルバム100第15位[61]
- 2000年デイブ・トンンプソンが10点満点を付けたアルバム53[62]
- 2000年ヴァージンが選ぶオールタイムベストアルバム1000第25位[63]
- 2001年Qマガジンが選ぶ人生のアルバム50第12位[64]
- 2002年ローリングストーン読者が選ぶトップ100アルバム第4位[65]
- 2002年スピンが選ぶオールタイムベストアルバム50第13位[66]
- 2002年BBCレディオ6が選ぶオールタイムベストアルバム第8位[67]
- 2003年Qマガジン読者が選ぶベストアルバム100第16位[68]
- 2003年ローリングストーンが選ぶアルバム500第26位[69]
- 2004年レコードコレクターが選ぶ最も価値のあるアルバム100:1500ポンド[70]
- 2004年Claus(アイルランド)が選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第5位[71]
- 2005年チャンネル4が選ぶオールタイムベストアルバム100(2005)第2位[72]
- 2005年ホットプレスが選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第1位
- 2005年「死ぬ前に聴いておくべきアルバム1001」[73]
- 2006年NMEが選ぶオールタイムベストアルバム100第11位[74]
- 2006年Qマガジンが選ぶ80年代ベストアルバム40第1位[75]
- 2006年Qマガジンが選ぶ人生のアルバム20第4位[76]
- 2006年Qマガジン読者が選ぶベストアルバム100第11位[77]
- 2006年BBCレディオ2が選ぶオールタイムベストアルバム第3位[78]
- 2006年クラシックロックマガジンが選ぶブリティッシュロックアルバム100第100位[79]
- 2007年Qマガジンが選ぶ音楽を変えた21のアルバム第15位(キートラックは I Still Haven’t Found What I’m Looking For )[80]
- 2008年レコードコレクター年間リスト(2008):20周年記念デラックス・エディション[81]
- 2008年トム・ムーンが選ぶ死ぬ前に聴いておくべきアルバム1000[82]
- 2011年Qマガジンが選ぶ人生のアルバム250第6位[83]
- 2012年ローリングストーンが選ぶアルバム500第27位[84]
- 2013年ジョン・ミーガー(アイリッシュ・インディペンデント)が選ぶオールタイムベストアイリッシュアルバム第15位
- 2013年NMEが選ぶオールタイムベストアルバム500第424位[85]
- アイリッシュ・タイムズが選ぶオールタイムアイリッシュベストアルバム第14位