ヨハネス・ファン・ラール
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ヨハネスは未成年の時に両親を失くしており、母親は2歳の時(1862年)、父親は13歳の頃(1873年)に死去している。それからは叔父であるN. A. ロスト・ファン・トニンゲン(N. A. Rost van Tonningen)が面倒を見るようになった。1878年に学校教育を修了し、デン・ヘルダーのウィレムスールにあるオランダ海軍に入隊。汽船による幾つかの旅を終え、海軍中尉に昇進したのち、退職を申し出ている。
1891年、アムステルダム大学において薬学、化学、および数学の勉強を開始する。大学時代、教授には物理学者のヨハネス・ファン・デル・ワールスや化学者のヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフがいた。
しかし、彼が受けた教育では博士号を取得することを自制するしかなく、この先オランダの大学で経歴を積むことはほぼ不可能に近かった。中等学校で教師を務めた後の1898年、アムステルダム大学において無給で講師となり、1902年には化学者のバフース・ルーゼブームの助手となる。大学時代の教授であったファン・デル・ワースはファン・ラールの昇格(例:1902年における有給講師の昇格、1907年におけるルーゼブームの死去に伴う後任の数理化学講師への昇格)には反対している。1907年にファン・ラールは数学講師に指名されるが、1910年に教授昇格を拒否した。こういった拒否反応が精神衰弱を誘発し、その地位を退くほかなかった。その後、亡くなる1938年までスイスのタヴェール=シュル=クラレンス(Tavel-sur-Clarens)で暮らした。享年78歳。
1930年、オランダ王立芸術科学アカデミーの会員となる[1]。