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ヨムスヴァイキング

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ヨムスヴァイキング(ヨムスヴィキング[1]、ヨームのヴァイキング[2]とも。英語: Jomsvikings)は、10世紀から11世紀にかけて活躍したとされる、伝説上のヴァイキングの傭兵団または戦士集団である。伝承上、彼らはオーディンやトールなど古ノルドの神々への信仰を保っていたとされるが、十分な報酬を払える貴族であれば、時にはキリスト教徒の統治者のためにも戦ったとされる。

986年のヒョルンガヴァーグの戦いにおいて、雹の嵐の中で戦うヨムスヴァイキング。

解説

古代北欧のサガ(特に『ヨムスヴァイキングのサガ(英語版)』、『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』、フラート島本に見られるいくつかの物語)によると、彼らの拠点であるヨムスボルグはバルト海の南岸にあったとされている。しかしその正確な場所については、現代の歴史家や考古学者の間で議論がある。多くの学者は、ヴォリン島にあるヴォリン(英語版)の町の北方、シルバーベルク(Silberberg)の丘に比定している[3][4][5]。ヨムスボルグは、中世のデンマーク語やドイツ語の記録で言及されている「Jumne」、「Julin」および「ヴィネタ(英語版)」と同一視されることがある[5]。

ヨムスヴァイキングの伝説は、12世紀から13世紀にかけてのアイスランドのサガのいくつかに見いだされる。主要な同時代史料が不足していることから、ヨムスヴァイキングの存在や、史実に基づく活動範囲については議論がある。「Jomsvikings」や「Jomsborg」という名前に言及している同時代の史料はないものの、関連づけられるルーン石碑が3基残っている。また、彼らの戦いの一つに言及するとされる同時代の詩節(ラウサヴィーサ)もある[注釈 1]。

『デンマーク人の事績』によれば、ヨムスボルグに城塞を築いたのはデンマークのハラルド青歯王とされている。しかし『ヨムスヴァイキングのサガ』によれば、ヴェンドの王ブリスラヴが自国をヴァイキングから守るために、デンマークのフュン島を支配していたパルナトキ(英語版)に築かせたという[6]。同サガの伝えるところでは、パルナトキはヨムスボルグにおいて部下を鍛えたが、彼のもとに集まった男たちには、後にパルナトキを継いで首領となるシグヴァルディ、のっぽのトルケルなどがいる[6]。シグヴァルディの代になると、デンマーク王スヴェン双叉髭王に対し、ノルウェーのハーコン・シグルザルソンを倒すことを約束して出撃する(ヒョルンガヴァーグの戦い)。しかし、ハーコンの守護神であるトルゲルドとイルパ(英語版)が雹の嵐を起こしたため、シグヴァルディらは撤退した。986年のこの戦いでの敗北が、やがてヨムスボルグを弱化させることとなった[7]。

ヨムスヴァイキングは984年のフューリスヴァラナの戦い(英語版)[8]にも関与した(Mårten Eskil Wingeが1888年に描いた絵画)。
1000年のスヴォルドの海戦。(オットー・シンディングが描いた絵画。)

『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』は、ヨムスヴァイキングが1000年のスヴォルドの海戦で、裏切りとも評される決定的な役割を演じたことを語っている。スヴォルドにおいて、ヤールのシグヴァルディ率いるヨムスヴァイキングの艦隊は、ノルウェーのオーラヴ・トリュッグヴァソン王を見捨て、彼の艦隊を全滅させるために彼の敵と協力した[注釈 2]。

ヨムスヴァイキングは1009年に東部イングランドを襲っており、11世紀前半にはスカンディナヴィア各地の領土も侵略した。1013年頃にはスヴェン双叉髭王のためにイングランドへ遠征していたが、別の見方では、イングランド人から彼ら自身のためのデーンゲルド(英語版)(退去料)を得るための計略であったとも考えられる。ヴァイキングの侵略軍はエゼルレッド無思慮王をノルマンディーへ追いやることとなった。

ヨムスヴァイキングは、その後20年から30年ほどの間に衰退していった。1043年、『ヘイムスクリングラ』によると、ノルウェーのマグヌス1世はヨムスヴァイキングの脅威に終止符を打つことを決めた。彼はヨムスヴァイキングを打ち負かし、その要塞を破壊して、生き残ったヴァイキングたちを処刑した。

フィクションでの登場事例

ヨムスヴァイキングは、漫画『ヴィンランド・サガ』において大きな役割を果たしている。同作では、主要な登場人物の幾人かが、のっぽのトルケルなどサガにおけるヨムスヴァイキングたちやクヌート大王をモデルにしている。

関連項目

主要な情報源

脚注

参考文献

外部リンク

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