ヨヴァン・カラマタ

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ヨヴァン・カラマタセルビア語キリル・アルファベット: Јован Карамата1902年2月1日1967年8月14日(1967-08-14) )は、セルビア数学者である。解析学、とりわけタウバー型の定理英語版正則変動関数英語版論への貢献で知られ、20世紀セルビアの数学者の中で最も影響力ある者の一人と評価されている[1]セルビア科学芸術アカデミー数学研究所設立に携わった。

1902年2月1日、ザグレブに出生した。カラマタ家セルビア語版西マケドニアピルゴイ英語版ギリシア語版からゼムンに移住したアルーマニア人商人に起源を持つ[2]オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国の国境沿いにおける一族の商業は広く及ぶものとなった[3][4]。父ステヴァンはザグレブでセルビア銀行の設立に携わり、ブダペシュト支部の取締役を務めた[5]

ヨヴァン・カラマタは1908年からブダペシュトの初等学校、1912年からゼムンのギムナジヤゼムンスカ・ギムナジヤセルビア語版)で学んだ。9歳のころに母を亡くし、祖父の兄弟の未亡人に育てられた。戦争勃発を心配して1914年にオシイェク、その後スシャク英語版セルビア語版に送られ、最終的に父の判断で兄弟姉妹とともにスイスへ渡った。1916年からローザンヌコレージュに通った。わずか14歳にして、ヴィディ英語版フランス語版の下宿に独りで住んでいた。1918年から Gymnase Scientifiqueフランス語版で学びジョルジュ・ド・ラームマルコ・チェレボノヴィッチ英語版と出会った。1920年に学校を卒業し、故郷に帰還した。同年に父のすすめに従ってベオグラード大学土木工学科に入学した。1922年、教授ボグダン・ガヴリロヴィッチのすすめで哲学部へ転向し、数学を学んだ。1925年に大学を卒業した[5][6]

ロックフェラー財団の支援を受けて1927年から2年間をパリで過ごし、アンドレ・リシュネロヴィッツポール・モンテル英語版フランス語版と交流した[5]。1928年、ベオグラード大学哲学部の数学のアシスタントに任命された。1930年に助教、1937年に准教授、1950年に正教授へ昇進した。1933年にユーゴスラヴィア科学芸術アカデミー英語版通信会員、1936年にチェコ王立科学協会英語版チェコ語版通信会員、1939年にセルビア王立科学アカデミー準会員、1948年にセルビア科学アカデミー正会員に選出された[7]スイス英語版フランスドイツの数学会の会員でもあった[8]。1945年からアカデミーの数学研究所創立に尽力した[6]

1951年、ジュネーヴ大学の正教授に就任した。雑誌 『L’Enseignement Mathématique』の編集者を務めた[8]。時折、ノヴィ・サド大学英語版セルビア語版でも働いた[6]

1931年、エミリヤ・ニコライェヴィッチと結婚し2人の息子と双子の娘を儲けた。1959年にエミリヤが没した。1967年、長い闘病の後にジュネーヴで歿した。遺灰は故郷のゼムンに埋葬された[1]

功績

カラマタは延べ122本の科学論文と15本のモノグラフ・教科書、7本の専門教育に関する論文を発表した[8]

カラマタの解析学における貢献に正則変動関数英語版の概念の導入、タウバー型定理の新しい種類(カラマタのタウバー型定理英語版)の発見や、マーサーの定理英語版フルラニ積分英語版の研究などがある。1935年に括弧を用いたスターリング数の記法を発明した。カラマタの不等式英語版でもその名が知られる。

カラマタとその弟子は「カラマタの(ユーゴスラヴィア)数学派」として知られている。カラマタは今日でも最も引用されているセルビアの数学者であり、20世紀の数学に大きな影響を与えた[8]

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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