ヨヴァン・カラマタ
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ヨヴァン・カラマタ | |
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| Јован Карамата | |
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| 生誕 |
1902年2月1日 オーストリア=ハンガリー帝国、クロアチア=スラヴォニア王国、ザグレブ |
| 死没 |
1967年8月14日(65歳没) スイス、ジュネーヴ |
| 市民権 | オーストリア=ハンガリー帝国 |
| 国籍 | セルビア |
| 研究分野 | 数学 |
| 出身校 | ベオグラード大学 |
| 博士課程指導教員 | ミハイロ・ペトロヴィッチ |
| 博士課程指導学生 | |
| 主な業績 | |
| 主な受賞歴 | 国際数学者会議講演 (1928, 1932, 1936) |
| プロジェクト:人物伝 | |
ヨヴァン・カラマタ(セルビア語キリル・アルファベット: Јован Карамата、1902年2月1日 – 1967年8月14日 )は、セルビアの数学者である。解析学、とりわけタウバー型の定理と正則変動関数論への貢献で知られ、20世紀セルビアの数学者の中で最も影響力ある者の一人と評価されている[1]。セルビア科学芸術アカデミー数学研究所設立に携わった。
1902年2月1日、ザグレブに出生した。カラマタ家は西マケドニアピルゴイからゼムンに移住したアルーマニア人商人に起源を持つ[2]。オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の国境沿いにおける一族の商業は広く及ぶものとなった[3][4]。父ステヴァンはザグレブでセルビア銀行の設立に携わり、ブダペシュト支部の取締役を務めた[5]。
ヨヴァン・カラマタは1908年からブダペシュトの初等学校、1912年からゼムンのギムナジヤ(ゼムンスカ・ギムナジヤ)で学んだ。9歳のころに母を亡くし、祖父の兄弟の未亡人に育てられた。戦争勃発を心配して1914年にオシイェク、その後スシャクに送られ、最終的に父の判断で兄弟姉妹とともにスイスへ渡った。1916年からローザンヌのコレージュに通った。わずか14歳にして、ヴィディの下宿に独りで住んでいた。1918年から Gymnase Scientifiqueで学びジョルジュ・ド・ラームやマルコ・チェレボノヴィッチと出会った。1920年に学校を卒業し、故郷に帰還した。同年に父のすすめに従ってベオグラード大学の土木工学科に入学した。1922年、教授ボグダン・ガヴリロヴィッチのすすめで哲学部へ転向し、数学を学んだ。1925年に大学を卒業した[5][6]。
ロックフェラー財団の支援を受けて1927年から2年間をパリで過ごし、アンドレ・リシュネロヴィッツやポール・モンテルと交流した[5]。1928年、ベオグラード大学哲学部の数学のアシスタントに任命された。1930年に助教、1937年に准教授、1950年に正教授へ昇進した。1933年にユーゴスラヴィア科学芸術アカデミー通信会員、1936年にチェコ王立科学協会通信会員、1939年にセルビア王立科学アカデミー準会員、1948年にセルビア科学アカデミー正会員に選出された[7]。スイス、フランス、ドイツの数学会の会員でもあった[8]。1945年からアカデミーの数学研究所創立に尽力した[6]。
1951年、ジュネーヴ大学の正教授に就任した。雑誌 『L’Enseignement Mathématique』の編集者を務めた[8]。時折、ノヴィ・サド大学でも働いた[6]。
1931年、エミリヤ・ニコライェヴィッチと結婚し2人の息子と双子の娘を儲けた。1959年にエミリヤが没した。1967年、長い闘病の後にジュネーヴで歿した。遺灰は故郷のゼムンに埋葬された[1]。