ライツ・オブ・スプリング
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| Rites of Spring | |
|---|---|
| 出身地 |
ワシントンD.C. |
| ジャンル | |
| 活動期間 | 1983年–1986年 |
| レーベル | Dischord |
| 旧メンバー | |
ライツ・オブ・スプリング(英語: Rites of Spring)は、1983年後半に結成されたアメリカ合衆国ワシントンD.C.出身のパンク・ロックバンド[7]。エンブレイスやビーフイーターとともに、1985年のD.C.ハードコア・パンクシーン内でのレボリューション・サマー運動[8]における主力として活動した。
音楽的には、バンドはハードコア・パンクの過激性と情熱を押し出しつつも、曲構成で実験をし続けた。個人的な内容の歌詞から、彼らをエモの先駆者と言われるようになったが[4]、バンドはそのことについて否定している[9][1]。
バンドは活動期間中19回しかライブをせず、そのうち16回はワシントンD.C.で行われた[10]。1980年代後半には、ヴォーカリスト兼ギタリストのガイ・ピチョットとドラマーのブレンダン・キャンティーは、プロデューサーでありマイナー・スレットのヴォーカリストだったイアン・マッケイとともにフガジでプレイするようになり、一方でベーシストのマイク・フェローズはMiighty Flashlightを結成した後ソロ活動を行っている。
録音
ピチョット、キャンティ、フェローズは以前Insurrectionというハードコアバンドで短期間共に活動していた。3人に元フェイス、スキューボールド、Untouchablesのギタリストであるエディ・ジャネイが加わり、1983年12月には共に作曲を始めた。 バンドはこの最初の期間に「All There Is」、「End on End」、「By Design」など数曲を完成させた。彼らはデモを1984年4月にインナー・イヤー・スタジオで録音したが、フェローズはカリフォルニアに移住した。ピチョットは、「俺たちは、彼は永遠に戻ってこないと思っていた」「俺たちは彼抜きで、きっと戻ってくると信じて練習を続けた。そして3か月後、なんと彼は戻ってきたんだ。」と述懐した[7]。
オールミュージックのMatt Kantorは、バンドの音楽性を「時に速くて猛烈」としつつ、「またある時は瑞々しく感情的でありながらも、常に推進力とメロディを伴っている」とも述べた[11]。ラウドで高速なハードコア・パンクのスタイルに根差しながらも、ライツ・オブ・スプリングはエモーショナル・ハードコア[12]、または一般にエモ・コアと呼ばれ、スクリーモの先駆けとなる音楽を演奏した最初のバンドの一つとなった。Jenny Toomeyは、「ライツ・オブ・スプリングはその言葉が生まれるよりずっと前から存在しており、彼らはその言葉を嫌っていた」と指摘している[9]。
彼らはエディ・ジャネイの以前のバンドであるフェイスと彼らの1983年のEP『Subject to Change』の内省的な歌詞と怒り、メロディを帯びたソングライティングに影響を受けている[13]。
バンドの名前はイーゴリ・ストラヴィンスキーによるシンフォニック・バレエ『春の祭典』に由来する。「俺たちはストラヴィンスキーと『春の祭典』の初演について読んでいた。そこでは皆が互いに殴り合っていた。」「音楽で誰かを挑発したら、相手が本気で音楽をやっているなら、必ず仕返しが来る。」とピチョットは述べた[7]。彼は、D.C.のパンクシーンを再生させるという願いをバンド名に反映したとも語り、次のように述べた。「俺たちは、ここで起こっていることの再生を創ろうとしていた。」「シーンが長い間停滞していたように見えたから、その名前は俺たちの感じていたことにぴったりだと感じた。春のような感じだ。」[7]
『ライツ・オブ・スプリング』はバンドの1stアルバムとなった。12曲の収録曲がインナー・イヤー・スタジオで1985年2月に録音され、フガジ、マイナー・スレットのイアン・マッケイとThe Faith、SOAのMichael Hamptonがプロデュースした。アルバムのLPは同年6月にディスコード・レコード No. 16としてリリースされた。アルバムは1987年にCD、カセットテープとして再リリースされ、同セッションから「Other Way Around」、彼らの次作EP『All Through a Life』(ディスコード・レコードNo. 22)の4曲が追加された。CD・カセット版では当初「16」の番号が保持されていたが、1991年の再プレスや2001年のリマスター版(同じ17曲を収録)では「16CD」の番号と新たなタイトル『End on End』が与えられた。デビューアルバムのセッションのほぼ1年前である1984年4月、彼らの6曲の1stデモが録音された。この録音はCD EPと10インチ・レコードで2012年にディスコード・レコードからNo. 176としてリリースされた。バンドは『All Through a Life』のレコーディングセッションの後すぐ、1986年1月に解散した[10]。
解散後と音楽的影響
ピチョット、ジャネイ、キャンティは元エンブレイスのギタリストMichael Hamptonと共にワン・ラスト・ウィッシュを結成した。彼らは『1986』と題された1枚のスタジオアルバムを録音したが、ミキシングが終了した後にバンドが解散してしまったため、1999年に発売された[14]。
ライツ・オブ・スプリングのメンバーはハッピー・ゴー・リッキーとして再集結し、スタジオ録音こそ行わなかったが、様々なライブ録音を収録したアルバムをリリースした。その音楽性はライツ・オブ・スプリングよりも実験的であり、即興演奏の要素が強く、テープループ・エフェクトも取り入れられた[14]。
その後、ピチョットとキャンティはベーシストのジョー・ラリーと元マイナー・スレット、スキューボールド、Egg Hunt、エンブレイスのボーカリストであり、バンドが所属するディスコード・レコードのオーナーでもあるイアン・マッケイと合流し、フガジが結成された。マイク・フェローズはレコード・レーベルのDrag Cityでのセッションに参加するようになった他、Miighty Flashlightを結成し、2002年には同名のスタジオ・アルバムを発売した[14]。
ディスコード・レコードは、2012年10月にバンド唯一のデモ『Six Song Demo』を発売した。デモ音源の全曲が、アルバム『ライツ・オブ・スプリング』以前に録音されたものとなっている[15]。
音楽性
ライツ・オブ・スプリングは、彼らのハードコア・パンクスタイルに、心情を吐露するような歌詞を盛り込んだ。シリウスXMラジオのQuinn Villarrealは、「作曲の視点は、軽蔑や怒りから、人間関係の問題やトラウマ、その他口に出しにくいテーマへと移った」としている[16]。
バンドは影響元としてザ・スミス、ザ・バースデイ・パーティ、バズコックス、ザ・モブ、ザ・フォール、テレヴィジョン、ボブ・ディラン、ザ・セインツ、ワイヤー、アンダートーンズ、アドヴァーツを挙げている[17]。
ライツ・オブ・スプリングは、ハードコア・パンクのサブジャンルとしてのエモを「知らず知らずのうちに創造し、定義した」と見なされているにも関わらず[18]、ピチョット自身は公にこれを否定している。そのことについてインタビュー内で問われた際、彼は「"エモ"が音楽ジャンルと認識したことは一度もない。俺はずっと、あれは最も馬鹿げた単語だと思っていた。その単語でレッテルを張られるバンドは皆それを嫌っているというのは、よくある話だということは分かっている。彼らはそれを不快に感じている。だが正直に言うと、俺が演奏してきたバンドはすべてパンク・ロックバンドだと思っている。俺がそれを馬鹿げていると思う理由は、つまり、バッド・ブレインズは感情的じゃなくて、ロボットみたいな連中だったとでも言うのか?ということだ。俺にはどうしても理解できない。」と返答した[19]。
メンバー
- ガイ・ピチョット – ボーカル、ギター
- エドワード・ジャネイ – ギター
- マイク・フェローズ – ベース
- ブレンダン・キャンティ – ドラム、ボーカル
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- Rites of Spring (1985年)
EP
- All Through a Life (1987年)
コンピレーション
- End on End (1991年)
デモ
- Six Song Demo (1984年録音、2012年発売[21])