イアン・マッケイ

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イアン・トーマス・ガーナー・マッケイ (Ian Thomas Garner MacKaye [məˈk][1] 1962年4月16日 - )はアメリカ合衆国ロックミュージシャン。1979年から活動し、ワシントンD.C.の独立レコード・レーベルであるディスコード・レコードの共同設立者兼オーナーや、ハードコア・パンクバンド・マイナー・スレットポスト・ハードコアバンド・フガジのフロントマンとして最もよく知られている。また、短期間だがティーン・アイドルズのベーシストや、エンブレイス英語版に加え、ミニストリーとのコラボレーションであるPailheadのフロントマンも務めた。マッケイは現在、彼の妻であるエイミー・ファリナ英語版と2001年に結成した2ピースインディー・ロックバンド、イーヴンズ英語版のメンバーである[2]。2015年には、ファリナとフガジの元メンバーであるジョー・ラリー英語版とともにコリキー英語版を結成している[3]

画期的なバンドであるマイナー・スレットとともに、彼は「ストレート・エッジ」という言葉を生み出したとされている[2]やその他のドラッグを断つことを推奨する思想であるが、マッケイはこれを運動化するつもりはなかったと述べている。

ハードコア・パンクや主体的なDIY精神の発展の立役者として、マッケイはQ・アンド・ノット・U英語版ジョン・フルシアンテセブン・セカンズ英語版ネイション・オブ・ユリシーズ英語版ビキニ・キルライツ・オブ・スプリングダグ・ナスティ英語版ロリンズ・バンドといったアーティストのプロデュースを行ってきた。

幼年期~青年期

イアン・マッケイは1962年4月16日、ワシントンD.C.に生まれ、その中のグローバー・パーク地区で育った。彼の父親はワシントン・ポスト紙の記者であり、最初はホワイトハウス担当記者、その後宗教の専門家となり、2023年に亡くなるまで[4]社会的進歩を重視する聖ステファノ教会で活動を続けた[5]。ホワイトハウス報道陣として、マッケイの父は1963年にジョン・F・ケネディが暗殺された際、大統領の車列に同乗していた[6]。 マッケイの父方の祖母はドロシー・キャメロン・ディズニー・マッケイであった。彼女はPaul Popenoeと共に結婚相談コラムを執筆し、Cosmopolitan Clubの会員でもあった。祖父はミルトン・マッケイといい、彼も雑誌記者でありながら、戦時情報局の幹部でもあった[7]。マッケイの長年の友人であるヘンリー・ロリンズによると、マッケイの両親は「寛容で、とても知性的で、偏見のない環境で子供たちを育てていた」という[8]

マッケイが子供の頃に最初に習ったのはピアノであった。彼はやがてレッスンも受けたが、母親が彼を学業に専念した環境に移したため、辞めてしまった。10歳ほどでジミ・ヘンドリックスらに影響を受けてギターに挑戦したが、ピアノとギターの関連性が理解できずに辞めてしまった[9]

マッケイは様々な種類の音楽を聴いたが、特にテッド・ニュージェントクイーンのようなメインストリームのハードロックを好んだ[10]。マッケイがパンクロックに出会ったのは1978年の11月のことであった。後に映画監督となるJem Cohenを含む彼の友人たちが、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!!』やジェネレーションXの『ジェネレーションX』といった初期のイギリスのパンク・レコードを貸してくれたのである[11]。1979年2月4日、ジョージタウン大学の近くで行われたザ・クランプス英語版の演奏を見たのが、彼にとって最初のパンク・コンサートになった[12][13]。彼はカリフォルニアのハードコア・シーンから特に強い影響を受けた。マッケイはバッド・ブレインズ[12]ブラック・フラッグといったバンドを尊敬しており、ヘンリー・ガーフィールド(後のヘンリー・ロリンズ)とは幼馴染であった[12]

初期のバンド

マッケイの最初のバンドは、Slinkeesの名前で1979年の夏に一度だけライブ演奏し、曲名は『I Drink Milk』だった[14]。バンドはカバー曲と、後にティーン・アイドルズが録音することになる楽曲を含む2本のデモテープを録音した。

The Slinkeesはティーン・アイドルズへと発展し、マッケイはベースギターとバックボーカルを担当した。バンドは1980年に解散し短命に終わったが、EP『Minor Disturbance』をリリースした。これがマッケイと彼のバンド仲間であるジェフ・ネルソン英語版の新たなレーベル、ディスコード・レコードからの最初のレコードになった。

マイナー・スレット

MacKaye (bottom right, with microphone) performing with Minor Threat in 1981

ティーン・アイドルズでの創造性に限界を感じたマッケイは、フロントマンとなり自身のバンドで作詞をすることを決断した。彼は前のバンドの解散後マイナー・スレット (1980–1983) をネルソンと共に結成した。マッケイは彼の生き生きとしたステージングの主な影響元として、ジョー・コッカーウッドストックでの力強いパフォーマンスを挙げている[8]。ティーン・アイドルズとマイナー・スレットはワシントンDC周辺でそれなりの成功を収めたが、後に最初期かつ最も影響力のあるハードコア・パンクバンドとして、また酒や薬物、煙草、性行為を拒否するストレート・エッジ思想の先駆者と言われるようになった。10代前半の頃、マッケイは何人かの親友や家族が薬物乱用の悪影響にさらされるのを見て、煙草、酒やその他の薬物を決して使わないと誓った。マイナー・スレットは、ライル・プレスラー英語版が大学に通っていたために数か月間活動を休止していた。その間、マッケイとネルソンは、短期間だけ新バンドSkewbald/Grand Unionを結成し、マイナー・スレットの活動再開と同時に解散した。

マイナー・スレットの解散後、マッケイはエンブレイス英語版(1985-1986)やエッグ・ハント英語版(1986)といった、いくつかの比較的短期間のグループで活動した。ペイルヘッド英語版(1987–1988)はマッケイとインダストリアル・メタルバンドミニストリー (バンド)のコラボレーションであり、アル・ジュールゲンセン、ポール・バーカー、ビル・リーフリンに加え、リードボーカルとしてマッケイが参加していた。

フガジ

1987年、マッケイはポスト・ハードコアで最も重要とされているバンドの一つ、フガジを結成した[2]。フガジは高額のチケット代で決して演奏しないことで他の多くのバンドと一線を画した。この通例ゆえに会場の選択肢が減ることも多く、バンドは演奏を中断してまで、ショーを荒らす観客を会場の外に連れ出し、チケット代の全額返金まで行っていた。バンドはロラパルーザのヘッドライナーのオファーを断ったことで有名だが、これはマッケイが$30というチケット代に反対したがフェスティバルの主催者がチケット代を安くすることを拒否したためである。マッケイはローリング・ストーン誌やその他の出版物のインタビューを拒否し、煙草や酒の広告を掲載しないことに同意した場合のみ応じると述べた[15]

The Evens

The Evens, featuring MacKaye and Amy Farina

イーヴンズ英語版では、マッケイは歌唱とバリトンギターを担当し、ウォーマーズ英語版エイミー・ファリナ英語版がドラムとボーカルを務める。バンドは、コミュニティセンターや書店などのような一般的でない場所での演奏を特徴としている[16]。イーヴンズはマッケイの3年間の沈黙を破り、2005年前半にセルフタイトルのアルバムをリリースした。彼らの2枚目のアルバムGet Evensは2006年11月に、最後のアルバムThe Oddsは2012年にリリースされた[17]

コリキー

2018年、マッケイはエイミー・ファリナとジョー・ラリー英語版(フガジ、The Messthetics)とともに新たなバンドを始めた[18]。2020年2月、バンド(現在のコリキー)[19]は2020年3月27日に彼らの最初のアルバムをリリースすると発表したが、新型コロナウイルスの流行によって同年5月29日にずれ込んだ[20]。デビューシングルである「Clean Kill」は2020年2月11日にリリースされた[21]

その他のプロジェクト

1982年、マッケイはガヴァメント・イシューの楽曲「Asshole」のあるバージョンにリードボーカルで参加した。それ以前の未発表曲は20 Years of Dischordに収録された。バッキング・ボーカルやコラボレーションは、弟アレック・マッケイ英語版のかつてのバンドIgnitionとの共演など、多岐にわたる。

マッケイはエクストラ・ギター・トラックを「Youth Against Fascism」(ソニック・ユースの1992年のアルバムダーティの2枚目のシングル)に提供した[22]

1988年、彼はミニストリー (バンド)のアル・ジュールゲンセン、ポール・バーカー、ビル・リーフリンとともに、ボーカルをペイルヘッド英語版のEP『Trait』のために録音した。彼は楽曲「I Will Refuse」を共同で作曲し、ともにWax Trax!というレーベルから発売された。

2004年2月、マッケイはジョン・フルシアンテのソロアルバム『DC EP』の録音セッションをプロデュースした。マッケイとの制作後、フルシアンテは「イアンは僕が心から尊敬し憧れる数少ない存命の人物だから、彼の見解を伺えたことは光栄で喜びであると同時に、素晴らしい学びの機会でもあった」と述べている[23]

マッケイはジョー・ラリー英語版のソロアルバム『There to Here』(2006年10月)、『Nothing Is Underrated』(2007年11月)にもギターとバッキング・ボーカルとして参加した[24]

彼の音楽キャリアを通して、マッケイはセブン・セカンズ英語版、Antelope、ビキニ・キルブラック・アイズ英語版ラングフィッシュ英語版ネイション・オブ・ユリシーズ英語版ワン・ラスト・ウィッシュ英語版Q・アンド・ノット・U英語版ライツ・オブ・スプリングロリンズ・バンドなど、数多くのバンドをエンジニアリング、プロデュースしてきた。リリースは主に彼の運営するディスコードから行われた。

ディスコード・レコード

マッケイは1980年、ジェフ・ネルソン英語版とともにディスコード・レコードを設立し、DIY事業として活動を継続している。関わった人々はレコードの制作方法を学び、マッケイによれば、彼らはティーンアイドルズのシングルを手作業で1万枚作ったという[25]

活動

政治運動、ビジネス、社会活動

MacKaye in 2007

彼のキャリアを通して、マッケイは独立したアンダーグラウンドなメディアでの広告掲載を選択し、型破りな場所での講演を続けてきた。こうした取り組みにより、入場料は米ドルで$5から$15と安く抑えられ、全年齢のファンが参加できるようにした。マッケイにとって、運営費を安く抑え金銭的資産を保護することもまた重要な理念であり、1990年の夏に自身やバンド仲間の個人資産を訴訟の脅威から守るため、Lunar Atrocities株式会社を設立した[26]。マッケイの経済的アドバイザーであるSeth Martinは、「ワシントン・ポスト」における1993年のインタビューにおいて「責任の回避が会社設立の主な理由であり、彼らにとっては理にかなっている。もし誰かがステージダイブで怪我をして訴訟を起こすことになっても、彼らの個人資産を差し押さえるのは少し難しくなるだろう。」と述べている[27]

マッケイはコンサート中の暴力行為を非難し、クラウドサーファーやその他の乱闘を起こすような暴れる観客に正面から対応することでも知られている。これは彼がフガジに在籍していた時期に顕著である。フガジのライブ中に観客が好戦的、暴力的になると、バンドは演奏を止め(曲の途中ですぐに止めることもあった)、マッケイは観客に暴れるのをやめるよう伝えていた。それでもそうした観客が暴走を続けた時は、入場料を返金しライブ会場から追い出していた[28][29]

2007年、マッケイは1970年のケント州立大学銃撃事件カンボジア作戦への反対運動中に銃撃された当時の学生であるAlan Canforaに技術的なオーディオ支援を提供した。マッケイはほかの学生による事件の録音を鮮明化した。Canforaによれば、テープでは「構えろ!狙え!撃て!」という鋭い掛け声を13秒間の銃撃戦が始まる前に聞くことができるという[30]

影響

ストレート・エッジの哲学

マイナー・スレットの楽曲「ストレート・エッジ」はマッケイにより書かれ、1981年にセルフタイトルEPに収録、リリースされた。この曲ではドラッグや酒、「征服のためのセックス」から解放された彼の私生活について述べられているが、彼は他者に自分のライフスタイルを強要する意図はなかったという[31]。この曲は10代のマッケイが一時的にDCを離れパロアルト (カリフォルニア州)に移住した後、戻ってくると友人たちがアルコールや薬物に依存していたという経験から生まれた[31]

彼の薬物を断つという選択は、マイナー・スレットが数多くのライブやEPを売り上げて知名度を上げたことにより、若者文化に影響を与え始めた。マッケイにとってこの曲は哲学や運動を体現するものではなかったが、時が経つと人々はこの曲の哲学を受け入れ、多くのバンドが自信を「ストレート・エッジ」と称するようになり、ストレート・エッジ運動が作られた。ストレート・エッジは明確に菜食主義を支持してはいないが、マッケイは自身の見解の論理的な発展と捉えているため、自らを菜食主義者であると述べている[32]。彼は厳格なヴィーガン食を実践している[33][34]。特に以下のような近年のインタビューで、マッケイは意図していない運動の創始者であることについての質問に対してしばしば苛立っていた。

"私はあるフレーズを考案しそれについての曲を書いたことを称賛されているようだ。それについてこれまで以上に労力を費やして説明するつもりはない。最初からずっと、それは私の意見ではないと言ってきたつもりだ。あの件全体で気付かされたのは、人々が私をどう思うかは自分ではどうしようもないということだ。どうでもいいことだ。ストレート・エッジという思想、私が書いた曲、それに関する人々の解釈について私が思うのは、それを悪用する者たちがいるということだ。彼らは原理主義的な考え方で本来の意味を妨げてしまっている。私の考えでは、その真意は「人は自分の望む生き方を許されるべきだ」ということだったのだ。ストレート・エッジというのは私が書いた曲の題名に過ぎないし、運動を起こすつもりなんてなかった。"[35]

「ストレート・エッジ」が最も注目を集めているが、マッケイは他にもマイナー・スレットで彼のクリーンな生き方を綴った曲を書いた。最も顕著なのは「Out of Step (With the World)」で、曲中で彼は「煙草は吸わない。酒は飲まない。セックスをしない。少なくとも俺は考えることはできる」と歌っている。「In My Eyes」でも、「お前はそれが神経を落ち着かせると言うが、ただカッコいいと思っているだけだろ」という歌詞にあるように、部分的ではあるが彼の哲学を反映している[要出典]

ディスコグラフィ

ティーン・アイドルズ

マイナー・スレット

Skewbald/Grand Union

エッグ・ハント

  • "Me and You " b/w "We All Fall Down", 7-inch single (1986)

エンブレイス

ペイルヘッド

  • "I Will Refuse" b/w "No Bunny", 7-inch and 12-inch single (1987)
  • "Man Should Surrender" b/w "Anthem", 7-inch single (1988)
  • "Don't Stand in Line" b/w "Ballad", 7-inch single (1988)
  • Trait, 12-inch EP (comprising Pailhead's last two singles) and CD (made up of all 3 singles) (1988)

フガジ

イーヴンズ

コリキー

使用機材

ギター

  • Gibson SG – マッケイのフガジでのメインギターは白の1970年代中期のGibson SGだった。彼は他にも1970年代中期の茶色のSGを頻繁に使用していた。両方とも、リアピックアップがディマジオのSuper Distortion humbuckersに交換されている[36]
  • Creston Electric Instruments Baritone – マッケイはイーヴンズ英語版においてダンエレクトロのバリトンギターを使用した[37]

アンプ

  • Marshall JCM 800 100W 2203 [Horizontal Input] (映像では70年代後半のMarshall JMP 100W 2203 Master Volume Modelも確認できる。)
  • Marshall JCM 800 4×12 キャビネット 65Wのcelestion 製スピーカー装備
  • 注: ギターはJCM 800のハイゲイン・インプットに直に接続され、プレゼンスとトレブルは非常に低く、ローとミドルはフルに設定されていた。
  • Fender Tweed Deluxe イーヴンズ英語版において使用された。

エフェクター

一般的な認識とは異なり、彼は何のエフェクターも使用していない[36]

私生活

マッケイは現在ワシントン D.C.に妻のエイミー・ファリナ、2008年5月24日に生まれた息子のカーマイン・フランシス・ファリナ・マッケイと共に暮らしている[38]

2012年、マッケイの妻は70年代後半から80年代前半のDCハードコア/パンクシーンから多くのゲストを招き、サプライズで50歳の誕生日パーティを開いた。20年ぶりの再会となるゲストも多かった[39]

マッケイの弟アレック・マッケイ英語版もまた、アンタッチャブルズ英語版フェイス英語版、Ignition、イアンの妻エイミーも在籍したウォーマーズ英語版といったいくつかの著名なバンドで活動した[40]。彼のイアンとの音楽的コラボレーションは限定的だが、彼はComplete Discographyを含む多くのマイナー・スレットの作品で使用された象徴的な写真に写っている。

ヘンリー・ロリンズとは幼少のころからの親友であり[41]、マッケイはワシントン D.C.のナショナルジオグラフィック・エクスプローラーズ・ホールで2011年2月13日に開かれたロリンズの50歳の誕生日パーティで最初にステージに立った[42]。彼らは普段は毎週日曜日に、互いに電話で話している[43]

民主党に継続的に投票しているが、マッケイは自身を明確に民主党支持者とは考えていない。彼はただ戦争を行う可能性が最も低い議員に投票していると述べている。また、2008年の大統領選挙ではバラク・オバマ氏に投票したとも付け加えている[44]。彼の政治的見解をさらに尋ねられると、このように述べた。

大統領選挙での投票に関する私の経験則は、常に一つのことに帰着する。この国の大統領になるのが誰であれ、この国の国民が相応しいということだ。なぜなら、国民はその候補に投票したか、不正を許したか、それに対して十分に抵抗しなかったのいずれかだからだ。しかし、世界のほかの国々は私たちの大統領が誰であろうと、その人物には相応しくない。他国の背負う問題では全くなく、私たちの問題だ。私たちの国は他国に莫大な影響を与えている。少なくとも私の見解では、世界全体に最も直接影響を与えるのは戦争、つまり殺人だ。この国は他の地域の人々を殺すことに長けており、ここ10年は特にそうだ。だから、私の選挙での経験則は、当選可能性が高く、かつ戦争をする可能性が最も低い人物に投票すること、それだけだ。非常に単純な理屈だ[45]

音楽以外の作品

出典

外部リンク

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