ラミリーズ (戦艦・2代)

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HMS ラミリーズ
基本情報
建造所 ジョン・ブラウン造船所
運用者  イギリス海軍
艦種 戦艦超弩級戦艦
級名 リヴェンジ級
愛称 ミリー(Millie)
モットー ラテン語: Fiel Pero Deodichado
英語: Faithful though disinherited
(不幸でも忠実に)[1][注釈 1]
艦歴
起工 1913年11月12日
進水 1916年9月12日
就役 1917年9月1日
退役 1945年8月31日
その後 1948年2月20日にスクラップとして売却[1][2][3]
要目(竣工時)
基準排水量 28,000トン
満載排水量 31,200トン
全長 620フィート (190 m)
最大幅 88フィート (27 m)
102フィート (31 m)
吃水 28フィート (8.5 m)
主缶 バブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼水管ボイラー×18基
主機 直結タービン×4基
出力 40,000軸馬力 (30,000 kW)
推進 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 23ノット (43 km/h)ただし1917年にバルジ増設後は21ノット (39 km/h)に低下。1939年には老朽化により18ノット (33 km/h)に低下。
航続距離 7,000海里 (13,000 km) /10ノット (19 km/h)時
乗員 997–1,146名
兵装
装甲
  • 水線部主装甲:13インチ (330 mm)
  • 甲板:1–4インチ (25–102 mm)
  • バーベット部:6–10インチ (150–250 mm)
  • 砲塔部:11–13インチ (280–330 mm)
  • 司令塔:13インチ (330 mm)
レーダー 竣工時:無し
~1945年:
273R型×1基
279b型×2基
282型×2基
284型×1基
285型×2基
その他 ペナントナンバー:07
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ラミリーズ (英語: HMS Ramillies, 07) はイギリス海軍戦艦[注釈 2]日本語ではラミリスと表記することもある[5][6]リヴェンジ級[注釈 3]。「Ramillies」の艦名は、ラミイの戦いの勝利を記念して「ロイヤル・キャサリン」が「ラミリーズ」と改名されてから、何代も踏襲されてきた。本艦は5代目にあたる[3]

竣工~第一次世界大戦

WWI期のダズル迷彩を施された本艦を描いた絵画。迷彩使用色の多さが分かる。

「ラミリーズ」は1913年11月12日に起工して、第一次世界大戦中の1917年5月に竣工した[8]。進水時にを損傷したために就役は予定より1年遅れた[9]。この修理期間中に高まる魚雷の脅威に対抗するべく、イギリス戦艦で最初に対水雷防御用バルジを装備した[10][注釈 4]。こうした装備により、「ラミリーズ」は理想的な射撃プラットホームとなった[9]

第一次世界大戦時の艦影

就役後は、グランドフリート第一戦艦戦隊に配属された。同時に船体にはダズル迷彩が施されて大戦終盤までこの塗装がなされていた[11]。本級では本艦と姉妹艦「リヴェンジ」のみがダズル迷彩塗装であったという[11]1920年に入ると、トルコとの対立に応じて地中海に派遣され、海岸を砲撃した。

戦間期

第一次世界大戦終結後、グランドフリートは解散して大西洋艦隊に再編された。 1924年に大西洋艦隊の第二戦艦戦隊に配属され、その後1926年には地中海艦隊に配属された。1931年9月のインヴァーゴードン反乱を経て、大西洋艦隊は本国艦隊に改編された。1932年6月から1934年8月まで大規模な修理を受けた。1935年末にはジブラルタルに来航するよう命じられ[12]、1936年から1939年にかけて地中海艦隊付の練習艦を務めている[11]。この間、1937年5月20日のジョージ6世戴冠記念観艦式に参列した。1939年に姉妹艦「ロイヤル・サブリン」とともに箱型艦橋への改装が構想されたが実現しなかった[注釈 5]

リヴェンジ級戦艦は改修工事が進んでおらず、第二次世界大戦勃発時には最も陳腐化していた[14]。本級はその時点の他国主力艦と比較して速力が遅く、水平防御と対空兵装が貧弱であったため、船団護衛が主任務となった[15]

第二次世界大戦初期

グリーノック軍港に停泊中の「ラミリーズ」

1939年9月の第二次世界大戦開戦直後は、ドイツ商船の本国への帰還を阻止するため北大西洋で活動した。 9月には兵員輸送船団を護衛してアレクサンドリアに向かい、年末には東に向かい、インド洋にも進出していたドイッチュラント級装甲艦[16](ポケット戦艦)[17]アドミラル・グラーフ・シュペー」捜索に参加した[18]。ポケット戦艦の捜索と掃討のため海軍本部は10月に複数の任務部隊を編成していたが[19]、11月中旬に改めて編成替をおこなった[18]。「ラミリーズ」と空母「グローリアス」と戦艦「マレーヤ」でJ部隊 (Force J) が編成され、アデン湾方面の警戒をおこなっている[20]。「アドミラル・グラーフシュペー」が12月中旬のラプラタ沖海戦によりモンテビデオ港で自沈すると[21]、本艦は船団護衛任務に就いた。翌年にかけてニュージーランドオーストラリアから西方への兵員輸送船団の護衛に当たった[1]

1940年(昭和15年)5月になると地中海の情勢が不穏となり、本艦も地中海に派遣された[注釈 6]。 6月10日にイタリア王国参戦して地中海攻防戦が始まり、地中海戦線が形成される[23]。6月下旬にフランスが枢軸陣営に事実上降伏した時、地中海艦隊は戦艦4隻(ウォースパイト、マレーヤロイヤル・サブリン、ラミリーズ)と空母「イーグル」を保有していた[6]。この戦力でイタリア海軍新型戦艦大改造戦艦達に対抗できるはずだったが、「ラミリーズ」の機関不調と速力低下は地中海艦隊にとって懸念材料の一つだった[6]。地中海艦隊における「ラミリーズ」は、主に船団護衛任務に従事した[14]。8月になると北アフリカリビアに駐留するイタリア陸軍エジプト侵攻の兆候を示したので、地中海艦隊が艦砲射撃をおこなって敵軍に損害を与えることになった[24]。8月17日、「ウォースパイト」と重巡洋艦「ケント」がフォート・カプッツォ英語版イタリア語版を砲撃し、「マレーヤ」と「ラミリーズ」がバルディア英語版を砲撃した[25]

9月になると地中海艦隊にクイーン・エリザベス級戦艦2隻と新鋭空母「イラストリアス」が増強され、さらに11月中旬のタラント空襲でイタリア艦隊の脅威が減少した[26]。イギリス海軍は、最前線の地中海艦隊から旧式の「ラミリーズ」と「マレーヤ」を下げることにした[27]。折しも大西洋でポケット戦艦「アドミラル・シェーア」が活動中だったので[28]、イギリス海軍は地中海に配備していた「ラミリーズ」と重巡洋艦「ベリック」を大西洋に配置転換する(MB9作戦)。マルタ出発後の11月27日、ジブラルタルから来たH部隊と合流し[29]カンピオーニ提督が指揮するイタリア艦隊と交戦した[30]スパルティヴェント岬沖海戦)。

その後、本国に帰還すると北大西洋でHX船団の護衛に従事した。1941年(昭和16年)2月8日朝、HX106船団を護衛中にドイツ海軍のシャルンホルスト級戦艦と遭遇した[31][注釈 7]。 リュッチェンス提督はエーリヒ・レーダー元帥から「できるだけ多くの商船を沈めよ」「危険を冒してはならない。対等条件の敵(大型艦1隻)との戦闘は避けよ」という命令を受けていた[33]。そのため「シャルンホルスト」がラミリーズを誘い出し、その隙に「グナイゼナウ」が船団に襲いかかるという選択肢があった[5]。だがリュッチェンス提督(グナイゼナウ)は「優勢な敵との交戦を避けよ」という命令に従って、退却した[5]フランス西部のブレスト軍港から遙かに離れた洋上で損害を受ける危険を、リュッチェンス提督は冒さなかったのである[32]。「ラミリーズ」側はドイツ艦がアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦1隻だけだと勘違いし、報告をうけたイギリス海軍も艦型を誤認して「ラミリーズの前に出現したのは重巡洋艦アドミラル・ヒッパーである。」と認定した[注釈 8]

ベルリン作戦の戦果に満足したドイツ海軍とレーダー元帥はライン演習作戦を発動し[35]、リュッチェンス提督が指揮する戦艦「ビスマルク」と重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」が大西洋に進出してきた[36]。5月24日のデンマーク海峡海戦で巡洋戦艦「フッド」が撃沈され、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が敗退した後[37]カナダハリファックス沖でHX127船団護衛中の「ラミリーズ」も「ビスマルク」迎撃に参加することとなった[31]。「ラミリーズ」はアイスランド南方海域に集結するよう命じられて移動を開始したが、命令受領2日後に「最早来る必要なし」との指令を受けている[31]

甲標的との戦い

ディエゴ・スアレス軍港に入港する「ラミリーズ」。1942年5月

1941年10月、「ラミリーズ」はセイロン島を拠点とする第3戦艦戦隊に配備され、極東にむかった。12月初旬、太平洋戦争開戦直後のマレー沖海戦東洋艦隊主力艦2隻を失う。1942年(昭和17年)3月には、インド洋で日本軍の攻勢を迎え撃つ[14]ジェームズ・サマヴィル司令長官は麾下の艦艇を、旗艦「ウォースパイト」とイラストリアス級航空母艦を基幹とするA部隊と、R級戦艦4隻と空母「ハーミーズ」を基幹とするB部隊に分割した[38]。「ラミリーズ」はアルジャーノン・ウィリス提督が指揮するB部隊に所属した。セイロン島に空襲を仕掛けてきた日本海軍機動部隊に対し[注釈 9]、「ラミリーズ」を含む東洋艦隊主力は交戦を避けて退避した[39]。本海戦で主力艦隊同士の決戦は生起せず、東洋艦隊は分派していた空母「ハーミーズ」と重巡洋艦2隻などを喪失した[38]

5月上旬、戦艦「ラミリーズ」(サイフレット提督、イギリス海兵隊スタージェス将軍旗艦)、空母「イラストリアス」、「インドミタブル」などはマダガスカルディエゴ・スアレス攻略作戦(アイアンクラッド作戦)を実行した[40]。占領作戦に成功したあと大半のイギリス攻略部隊はディエゴ・スアレスを離れたが、「ラミリーズ」はディエゴ・スアレスに留まっていた[41]

日本海軍はディエゴ・スアレス沖合に第八潜水戦隊を展開し、甲標的による奇襲作戦を敢行する[42]30日伊16伊20特殊潜航艇を発進させた[41][43]。伊16の甲標的は座礁して攻撃に失敗したが[44]、伊20の甲標的(秋枝三郎大尉、竹本正巳 一曹)は湾内に侵入した[45]。甲標的が発射した最初の魚雷は午前2時20分(日本時間20時20分)に「ラミリーズ」に命中、その約5分後、2本目の魚雷がタンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティ」に命中した[46][47]。「ブリティッシュ・ロイヤルティ」は沈没した[48]

甲標的が発射した魚雷は、「ラミリーズ」は左舷のA砲塔前部に命中した。前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水したが[49]、機関は無事であった[49]。イギリス側はフランス潜水艦の仕業だと判断したという[50]。「ラミリーズ」は応急修理を受けた後、ダーバンへ向かった[51][52]。ダーバンには6月9日に到着し、そこで修理を受けた後9月にはイギリスへ向かい、デヴォンポートで修理された[1]。この間弾火薬庫の上面に装甲を追加され、15.2cm副砲4門を撤去して4連装ポンポン砲2基を増設した[53][54]。「ラミリーズ」が再就役したのは1943年5月のことであった[51]

姉妹艦の「リヴェンジ」や「レゾリュ―ション」が予備役に入る中、「ラミリーズ」はリヴェンジ級戦艦のなかでも保存状態が大変良かったため、引き続いて現役に留まった[55][54]

その後

ノルマンディー上陸作戦を支援する「ラミリーズ」

1944年6月のノルマンディー上陸作戦では、艦砲射撃による支援を行った[14][54]。「ラミリーズ」は僚艦「ウォースパイト」やモニター艦ロバーツ」などと共に[56]ソード・ビーチ正面を担当した[57]。途中ドイツ軍によって雷撃や爆撃を受けたが被害を受けなかったうえに、わずか一日で主砲弾を撃ち尽くしてポーツマスへ帰還している[58]。その後、連合軍の南フランス侵攻作戦でも艦砲射撃を行った(ドラグーン作戦、戦闘序列)。

1945年(昭和20年)1月には第一線を退き、訓練に従事した[1]。同年8月31日には退役して予備役となる[2]1948年(昭和23年)2月20日にスクラップとして売却され、曳航された「ラミリーズ」の艦体は、装備品の取り外しのため1948年4月23日にケイルンライアン英語版へ到着した[1]。残った艦体は1949年(昭和24年)10月からトルーン英語版解体された[2]

栄典

出典

参考文献

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