ラン・ナタン
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ラン・ナタン(Ran Nathan、ヘブライ語:רן נתן、1962年生まれ)[1]は、イスラエルの生物学者・鳥類学者・生態学者である。エルサレム・ヘブライ大学の生態学・進化行動学科において、アデリナ・アンド・マッシモ・デラ・ペルゴラ生命科学講座教授を務め、移動生態学研究室(Movement Ecology Lab)を主宰する[2]。また、ミネルバ移動生態学センター(Minerva Center for Movement Ecology)の所長であり、オープンアクセス学術誌 Movement Ecology(BioMed Central)の共同創設・共同編集長でもある[3]。
ナタンは2008年に「移動生態学」という統合的研究パラダイムを提唱したことで国際的に広く知られており、分散(特に長距離分散)・渡り・採餌・ナビゲーション・飛行空気力学・動物行動・社会的相互作用・侵入種・鳥類による病気の伝播・遺伝子流動・植物と動物の相互作用・植物の加入(リクルートメント)など、移動生態学の幅広い領域を研究している[4]。
博士号取得後、1999年から2001年までプリンストン大学の生態学・進化生物学科にてS.A.レヴィン教授の指導のもと博士研究員および研究員を務めた。その後、2001年から2003年にはベン・グリオン大学(ネゲブ)で講師、2003年には同大学で上級講師を務めた。2003年から2005年にはエルサレム・ヘブライ大学でも上級講師として勤務し、2005年に准教授、2009年に正教授へ昇任した[5]。
2006年、ナタンはエルサレム高等研究所(Israel Institute for Advanced Studies)において国際研究グループを主宰し、移動生態学を新たな統合的研究分野として確立するための基礎を築いた。2008年には米国科学アカデミー紀要(PNAS)の移動生態学特集号(Special Feature)を編集し、この分野の概念的・理論的枠組みを世界に発信した[6]。
2012年には、ドイツ・イスラエル学際的研究拠点として、ミネルバ財団とヘブライ大学の支援によるミネルバ移動生態学センターを設立した。2013年には、動植物の移動研究のための主要な国際フォーラムとなったオープンアクセス誌 Movement Ecology(BioMed Central)を共同創設した[7]。
学術的業績
移動生態学パラダイムの提唱
ナタンの最も顕著な業績は、2008年にPNAS誌に発表した論文「生物の移動研究を統合するための移動生態学パラダイム」(A movement ecology paradigm for unifying organismal movement research)である。この論文では、生物の移動を説明する四つの基本的なメカニズム的要素として、
- 内部状態(なぜ移動するか)
- 運動能力(どのように移動するか)
- ナビゲーション能力(いつ・どこへ移動するか)
- 移動に影響する外部要因
を提示した概念的枠組みを提唱した。この枠組みは、微生物から樹木、ゾウに至るあらゆる生物の移動を統合的に研究するためのパラダイムとして広く受け入れられている[8]。
ナタン自身が2010年のScience Watch誌のインタビューで明かしたところによると、移動生態学を新たな研究分野として確立するというアイデアは2002年に生まれた。着任1年目の教員として、種子分散を研究する学生と鳥の渡りを研究する学生の双方を指導していたナタンは、「自分の研究グループにどんな名前をつければよいか」という問いを自らに投げかけた。そこから彼は、異なる移動現象がなぜ互いに孤立した形で研究されているのか、そして生物の移動に関する一般的な統一理論がなぜ存在しないのかを深く考えるようになった[9]。
種子の長距離分散研究
1999年以来、ナタンは種子の分散、特に長距離分散(LDD:Long-Distance Dispersal)に関する研究に先駆的に取り組んできた。
2002年に Nature 誌に発表した論文「風による種子の長距離分散のメカニズム」(Mechanisms of long-distance dispersal of seeds by wind)では、乱流輸送過程と種子の空気力学を組み合わせた機械論的モデルを用いて、風による種子の長距離分散を確率論的に正確に記述できることを示した。特に、森林林冠上への上昇気流が長距離分散の必要かつ十分な条件であることを明らかにした点は、植物の分布拡大研究に大きな影響を与えた[10]。
また、2006年には Science 誌に植物における希少な長距離分散イベントの重要性についての論文を発表し、将来の気候変動下での植物の拡散速度を決定する要因についての研究も展開した[11]。
ATLASトラッキングシステムの開発
ナタンはテルアビブ大学のシヴァン・トレド教授(コンピューター科学)と共同で、「ATLAS (移動生態学)(Advanced Tracking and Localization of Animals in real-life Systems)」と呼ばれる革新的な野生動物追跡システムを開発した。これは逆GPSシステムであり、20グラム以下の小型動物を高精度・高サンプリング頻度で自動的かつ同時に多数追跡することができる携帯型・低コストのシステムである[12]。
このATLASシステムを用いた研究の成果として、2020年には Science 誌の表紙を飾った論文「新型高スループット追跡システムによって明らかにされた野生コウモリの認知地図に基づくナビゲーション」(Cognitive map–based navigation in wild bats revealed by a new high-throughput tracking system)を発表した。
この研究では、イスラエルのフーラ渓谷に生息するエジプトルーセットオオコウモリ 172頭を4年間・3,449頭×夜にわたり追跡し、1,800万件を超える位置情報を蓄積した。解析の結果、野生のコウモリが目標指向型の直線的な飛行を繰り返し行い、頻繁にショートカットを利用することが明らかになり、認知地図に基づくナビゲーションと一致する行動パターンが確認された[13]。
主な著作・論文
- Nathan, R., and H. C. Muller-Landau. (2000). Spatial patterns of seed dispersal, their determinants and consequences for recruitment. Trends in Ecology & Evolution 15:278–285.
- Nathan, R., G. G. Katul, H. S. Horn, S. M. Thomas, R. Oren, R. Avissar, S. W. Pacala, and S. A. Levin. (2002). Mechanisms of long-distance dispersal of seeds by wind. Nature 418:409–413.
- Nathan, R., W. M. Getz, E. Revilla, M. Holyoak, R. Kadmon, D. Saltz, and P. E. Smouse. (2008). A movement ecology paradigm for unifying organismal movement research. Proceedings of the National Academy of Sciences USA 105:19052–19059.
- Nathan, R., F. M. Schurr, O. Spiegel, O. Steinitz, A. Trakhtenbrot, and A. Tsoar. (2008). Mechanisms of long-distance seed dispersal. Trends in Ecology & Evolution 23:638–647.
- Tsoar, A., R. Nathan, Y. Bartan, A. Vyssotski, G. Dell'Omo, and N. Ulanovsky. (2011). Large-scale navigational map in a mammal. Proceedings of the National Academy of Sciences USA 108:E718–E724.
- Nathan, R., N. Horvitz, Y. He, A. Kuparinen, F. M. Schurr, and G. G. Katul. (2011). Spread of North-American wind-dispersed trees in future environments. Ecology Letters 14:211–219.
- Toledo, S., D. Shohami, I. Schiffner, E. Lourie, Y. Orchan, Y. Bartan, and R. Nathan. (2020). Cognitive map–based navigation in wild bats revealed by a new high-throughput tracking system. Science 369:188–193.
- Nathan, R., C. T. Monk, R. Arlinghaus, et al. (2022). Big-data approaches lead to an increased understanding of the ecology of animal movement. Science eabg1780.
受賞・栄誉
- ヨラム・ベン=ポラス優秀若手研究者賞、エルサレム・ヘブライ大学(2005年)
- フリードリヒ・W・ベッセル賞、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団(ドイツ)(2006年)
- アデリナ・アンド・マッシモ・デラ・ペルゴラ生命科学講座教授就任(2011年)
- 国際共同研究賞、オーストラリア研究会議(2011年)
- ハイエンド外国人専門家プログラム、中国科学院(2015年)
- 総研究資金調達額:1,150万ドル超(42件の研究助成、1999〜2016年)[14]
思想・考え方
ナタンの思想の中核には、生物の移動現象を断片的・専門別に研究するのではなく、統合的な「移動生態学」という枠組みのもとで体系化するという構想である。彼は、微生物から植物の種子、鳥、ゾウに至るすべての生物の移動が、共通の四つのメカニズム的要素(内部状態・運動能力・ナビゲーション能力・外部要因)によって記述できると主張する。この枠組みは、従来それぞれ孤立して発展してきたランダム・バイオメカニクス・認知・最適化の各アプローチを補完・統合するものである[15]。
ナタンはまた、技術革新と生態学的洞察の両立を重視する。ATLASシステムの開発に象徴されるように、彼は精密な追跡技術を駆使しながら、それによって得られるデータが単なる記録にとどまらず、移動の基本的な法則の解明につながることを目指している。野生コウモリの認知地図研究が示したように、ナタンの研究はしばしば「野生動物がどのように世界を認識し、移動を決定するか」という根本的な問いに迫るものである[16]。
さらにナタンは、移動生態学が保全生物学・疫学・気候変動適応などの実践的課題の解決にも貢献できると考えており、野生動物のリアルタイム追跡を活用した感染症の早期警戒システムの構築など、学際的な応用研究にも力を注いでいる[17]。