移動生態学

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提唱者 ラン・ナタンRan Nathan)ほか
提唱年 2008年
中核論文 Nathan et al., Proceedings of the National Academy of Sciences 105(49): 19052–19059
移動生態学
Movement Ecology
生物個体の移動を統合研究する生態学分野
基本情報
分野 生態学行動生態学生物地理学
提唱者 ラン・ナタンRan Nathan)ほか
提唱年 2008年
中核論文 Nathan et al., Proceedings of the National Academy of Sciences 105(49): 19052–19059
専門誌 Movement Ecology(BioMed Central、2013年創刊)
関連概念 分散生態学渡り生態学採餌理論景観生態学保全生物学

移動生態学(いどうせいたいがく、英: movement ecology)は、微生物から樹木に至るあらゆる生物個体の移動を統合的に研究する生態学の一分野である。

2008年にイスラエル・ヘブライ大学ラン・ナタンRan Nathan)らが提唱したパラダイム(範型)に基づき、なぜ移動するのか(内部状態)、どのように移動するのか(運動能力)、いつどこへ移動するのか(ナビゲーション能力)、そして外部環境がどのように移動に影響するか、という四つの基本的構成要素の相互作用として個体の移動を捉える[1]

本分野は、分散・渡り・採餌といった従来は個別に研究されてきた移動現象を単一の概念的枠組みのもとに統合し、生態学進化生物学数理科学・工学をまたぐ学際的な科学として急速に発展している。

生物個体の移動は、栄養摂取・繁殖・競争回避・捕食者回避など多様な動因に基づいて生じ、個体の適応度・集団動態・生態系の構造と機能に根本的な影響を与える。ネイサンは2008年の論文において、移動研究には膨大な蓄積があるにもかかわらず、「第一原理から導かれた統一的なパラダイムが欠如している」と指摘し、概念・理論・方法論・実証の各レベルを統合する新たなパラダイムを提唱した[2]。このパラダイムは、アリストテレスが紀元前4世紀に「あらゆる移動に共通する原因を一般的に考察しなければならない」(De Motu Animalium)と記した問いに現代科学が応答するものともいえる。

移動生態学は、採餌行動論渡り生物学分散生態学景観生態学個体群動態論など従来の下位分野を横断する統合科学として位置づけられる。近年は生物標識追跡(バイオロギング)、GPS加速度センサーレーダーコンピュータビジョンなどの追跡技術の革新とビッグデータ解析手法の進展により、データに富んだ(data-rich)分野へと急速に転換した[3]

背景・開発経緯

前史:分散した研究の蓄積

移動する生物の研究は、採餌理論(最適採餌理論、1970年代)、渡り生物学分散生態学個体群生態学景観生態学など多数の下位分野で独立して発展してきた。しかし、これらは共通の理論的枠組みを持たず、「タコノミー(分類群)ごとの孤島」として分断されていた。Holden(2006年)はScience誌において、「移動生態学に向かいつつある」と題した記事でこの課題を指摘し、統合的アプローチの必要性を示唆した[4]。Holyoakら(2008年)は、1997年から2006年の10年間に移動を主題とする論文が約26,000件に達すると推計しながらも、研究の断片化が著しいと評価した[5]

2008年パラダイムの提唱

2008年12月、Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)誌は「Movement Ecology Special Feature」として特集号を組み、ネイサンらによる中核論文を中心に、種子散布の採餌・オオヤマネコの分散・渡りなど多様な事例研究が掲載された。ネイサンら(ヘブライ大学、カリフォルニア大学デービス校ほか)は、生物個体の移動を統一的に記述する概念的枠組みとして移動生態学パラダイムを提唱した[6]

専門誌の創刊と研究機関の設立

2013年7月3日、BioMed Central社から国際学術誌Movement Ecologyが創刊された。同誌はネイサン(ヘブライ大学)と数理生態学者ルカ・ジウッジオーリ(ブリストル大学)が共同編集長を務め、動物・植物・微生物のいずれの分類群も対象とし、採餌・分散・季節的渡りなど移動現象全般を扱うオープンアクセス誌として位置づけられた[7]。同時期にヘブライ大学にはミネルバ移動生態学センター(Minerva Center for Movement Ecology)が設立され、スウェーデン・ルンド大学には CAnMove センターが置かれるなど、専門研究拠点の整備が進んだ。また、マックスプランク動物行動研究所(旧マックスプランク鳥類学研究所)が主導するグローバル動物追跡データベース Movebank が整備され、研究基盤として機能するようになった[8]

主な内容・特徴

移動生態学フレームワーク

ネイサンらが提唱した移動生態学フレームワーク(Movement Ecology Framework, MEF)は、生物個体の移動を四つの基本的構成要素の相互作用として定式化する。

内部状態(Internal State)
なぜ移動するのか」を規定する生理的・神経的・認知的状態。空腹、繁殖欲求、捕食リスク回避への動機づけなどを含む。内部状態は運動能力およびナビゲーション能力に直接影響を及ぼす。
運動能力(Motion Capacity)
どのように移動するのか」を規定する形態・生理的能力。翼・脚・ひれの形態、筋力、持久力などの身体的特性が該当し、移動経路(移動軌跡)の物理的特性を決定する。
ナビゲーション能力(Navigation Capacity)
いつ・どこへ移動するのか」を規定する認知・感覚的能力。地磁気感覚・嗅覚・視覚的ランドマーク認識・記憶などによる空間定位と方向決定を含む。
外部要因(External Factors)
移動に影響を与えるのはなにか、環境要因。景観の異質性・資源分布・天候・捕食者の存在・人間活動による改変などが含まれる。

これらの四要素が相互に作用した結果として、観察される移動経路(movement path)が生成される。この経路はさらに、より大きな移動現象(採餌・分散・渡り・学習探索など)を構成する移動相(movement phases)と、その最小単位である規範的活動様式(canonical activity modes、細菌における「走」と「転向」、大型動物における「静止」「歩行」「走行」など)に分解される[9]

移動現象の類型

移動生態学は生物の移動を複数の現象類型に分類して研究する。主な類型は以下のとおりである。

採餌移動(Foraging movement)
資源獲得を目的とした探索行動。最適採餌理論(Stephens & Krebs 1986)やレヴィウォーク仮説と深く関連する。
分散(Dispersal)
出生地または繁殖地から新たな地点への一方向的な移動。遺伝子流動・個体群動態・種の分布拡大に寄与する。
季節的渡り(Seasonal migration)
季節変化に応じた定期的な移動。鳥類哺乳類魚類など多様な分類群で記録されている。
帰還・定位(Navigation and homing)
特定の目的地への長距離移動。サケウミガメの生まれ故郷への回帰などが代表例。
学習探索(Learning excursion)
経験取得を目的とした探索的移動。

ランダムウォークとレヴィウォーク

移動経路の数理的記述においては、

  1. 相関ランダムウォーク(Correlated Random Walk)
  2. レヴィウォーク(Lévy walk)
  3. 状態空間モデル(State-Space Model)

などが用いられる。

なかでもレヴィウォーク仮説は、資源が希薄にランダム分布する環境での採餌において、べき乗分布に従うステップ長分布が探索効率を最大化するという主張から大きな関心を集めた。しかし、初期に行われた分析手法の問題点が指摘され、多くの既存研究が再分析によって支持されないことが明らかになるなど[10]、その普遍性については現在も活発な議論が続いている。

技術的基盤:追跡技術とビッグデータ

移動生態学の近年の飛躍的な発展を支えているのは、追跡技術の革新である。GPS発信機・VHF無線テレメトリーアルゴス衛星・音響トライアングレーション(リバースGPS)・加速度計・コンピュータビジョン・レーダーなど多様な技術が相補的に用いられている。2022年のネイサンらのレビュー(Science誌)は、ハイスループット型追跡システムがビッグデータ科学としての移動生態学を実現しつつあると評価し、高解像度データが従来の低解像度データとは質的に異なる生態学的洞察をもたらすことを複数の事例で示した。たとえば、高解像度GPSデータはキジ類の個体間でのランドスケープ利用パターンの多様性を明らかにし、魚類の音響追跡データは漁業回避行動の発見を可能にした[11]

グローバルな動物追跡データベースであるMovebank(マックスプランク動物行動研究所が運営)には、40億件以上の位置記録・1,252以上の分類群に関するデータが収録されており、世界規模での移動生態学研究の基盤となっている[12]

影響・評価

生態学・保全生物学への貢献

移動生態学パラダイムは、生息地断片化気候変動生物侵入感染症拡散など現代の環境問題の理解に直結する研究を促進した。個体の移動データは、生態学的コネクティビティ(つながり)の定量化、野生動物の環境変化への応答評価、保護区ネットワーク設計の高度化などに活用されている[13]

学際性

移動生態学の特徴的な強みは、その学際性にある。生態学者・数理科学者・物理学者・コンピュータ科学者・工学者がともに研究に参加し、方法論の共有と概念の洗練が進んでいる。Movement Ecology誌は創刊当初より、18か国以上の研究者からなる編集委員会を擁し、認知科学・気候変動研究・疫学・集団遺伝学・進化生物学などを横断する多様なテーマを対象領域に掲げた[14]

引用と広がり

Holyoakら(2008年)の推計では、1997〜2006年の10年間に移動に言及した論文は約26,000件に達しており、移動生態学が扱う現象の研究はすでに膨大な規模にあった。その後、2008年のパラダイム論文は極めて広範に引用され、分野の統合的発展を牽引した。2022年のScience誌レビューは、高スループット追跡技術によってこの分野がゲノミクスや環境モニタリングと同様の「データ革命」を経験していると総括している[15]

主要文献

  1. Nathan, Ran; Getz, Wayne M.; Revilla, Eloy; Holyoak, Marcel; Kadmon, Ronen; Saltz, David; Smouse, Peter E. (2008). “A movement ecology paradigm for unifying organismal movement research”. Proceedings of the National Academy of Sciences 105 (49): 19052–19059. doi:10.1073/pnas.0800375105. 
  2. Nathan, Ran (2008). “An emerging movement ecology paradigm”. Proceedings of the National Academy of Sciences 105 (49): 19050–19051. doi:10.1073/pnas.0808918105. 
  3. Holyoak, Marcel; Casagrandi, Renato; Nathan, Ran; Revilla, Eloy; Spiegel, Orr (2008). “Trends and missing parts in the study of movement ecology”. Proceedings of the National Academy of Sciences 105 (49): 19060–19065. doi:10.1073/pnas.0800483105. 
  4. Nathan, Ran; Giuggioli, Luca (2013). “A milestone for movement ecology research”. Movement Ecology 1 (1): 1. doi:10.1186/2051-3933-1-1. 
  5. Nathan, Ran; Monk, Christopher T.; Arlinghaus, Robert (2022). “Big-data approaches lead to an increased understanding of the ecology of animal movement”. Science 375 (6582): eabg1780. doi:10.1126/science.abg1780. 
  6. Kays, Roland; Davidson, Sarah C.; Berger, Morgan (2022). “The Movebank system for studying global animal movement and demography”. Methods in Ecology and Evolution 13 (2): 419–431. doi:10.1111/2041-210X.13767. 

関連項目

脚注

外部リンク

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