アリソンはケンタッキー州ジェファーソン郡に生まれ、父はアメリカ陸軍将校ジョン・S・アリソン大尉、母方の縁から第12代アメリカ合衆国大統領ザカリー・テイラーの甥にあたるとされる。1845年頃にボルチモアへ移り、1849年10月30日に海軍の「会計官(Purser)」に任命された[2]。
初期の乗艦はベニシア(Benicia)、プリンストン(Princeton)などで、のちにマケドニアン(Macedonian)に転属し、この艦でマシュー・ペリー提督の日本遠征に随行したと記録される。アリソンは遠征隊の会計・物資管理を担当し、ペリー艦隊の一員として幕末日本との接触に関わった[3]。
1859年にはワシントンD.C.のワシントン海軍工廠の会計官に任命され、1860年に来訪した万延元年遣米使節を迎えた海軍側スタッフの一人となった。海軍歴史センターに残る集合写真には「Purser R. T. Allison」の名が確認される。
1861年に南北戦争が勃発すると、アリソンは出身地の事情もあり海軍を離れて南部側に転じ、5月10日付でアメリカ連合国海兵隊の会計将校兼少佐に任命された。南軍海兵隊の会計官は唯一彼一人であり[4]、統率者ロイド・J・ビール大佐、軍需担当アルジャーノン・S・テイラー少佐、副官イズラエル・グリーン少佐らとともに組織上層部を構成した。戦争後期にはセムズ旅団に付属し、1865年4月26日にノースカロライナ州グリーンズボロで降伏した。
戦後はボルチモアに戻り、弁護士として活動したのち、同市の高等裁判所で書記局長を務めたと新聞資料などに記録される。1909年に死去し、メリーランド州内Saint James of My Ladys Manor Cemeteryに埋葬された[5]。日本史の観点では、アリソンはペリー艦隊と万延元年遣米使節の双方に立ち会った希有な海軍官僚であり、幕末の日米交流にまたがって関与した人物として位置づけられる。