リチャード・トレンチ (第2代クランカーティ伯爵)
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初代フースデン侯爵および第2代クランカーティ伯爵リチャード・ル・プア・トレンチ(Richard Le Poer Trench, 2nd Earl of Clancarty, 1st Marquess of Heusden GCB GCH PC PC (Ire)、出生名リチャード・トレンチ(Richard Trench)、1767年5月18日 – 1837年11月24日)は、アイルランド王国出身の政治家、外交官、貴族。トーリー党内閣でアイルランド郵政長官、造幣局長官、商務庁長官、イギリス郵政長官を歴任した[1]。1810年代から1820年代にかけて在オランダイギリス大使を務め、ウィーン会議におけるイギリス代表の1人を務めた[2]。このとき、ナポレオン・ボナパルトのエルバ島脱出の報せを聞いた諸国の王族が仰天する様子を見て、会議を早く終結させるためには王族の恐怖を煽るべきだと考えたという[2]。
生い立ち
初代クランカーティ伯爵ウィリアム・トレンチと妻アン(1746年5月13日 – 1829年7月8日、チャールズ・ガーディナーの娘)の息子として、1767年5月18日にアイルランドで生まれた[1][3]。キンボルトン・スクールに通った後、1785年6月24日にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジに入学、1789年にB.A.、1792年にM.A.の学位を修得した[3]。1788年にリンカーン法曹院に入学して、1793年5月にアイルランドで弁護士資格免許を取得した[4]。
庶民院議員
トレンチは政治家になることを目指し[4]、妻の母の兄にあたるトマス・コノリーの助力を借りて、1796年にニュータウン・リマヴァディ選挙区でアイルランド庶民院議員に当選した[5]。1797年アイルランド総選挙で現職議員だった父に代わってゴールウェイ県選挙区から出馬して再選した[5]。アイルランド庶民院では政府を支持したが、1799年にアイルランド王国とグレートブリテン王国の合同法案が提出されたときははじめ反対した[4]。その後、カースルレー子爵が介入した結果、1800年に合同法案が再度提出されたとき、トレンチは賛成に転じた[4]。賛成に転じた理由について、『完全貴族要覧』はトレンチが父の子爵への昇叙の内諾で買収されたと主張した[1]。カースルレー子爵はトレンチが聡明であると評価し、2人は以降生涯にわたる友人となった[5]。
1801年に合同法によりグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立すると、トレンチはアイルランド庶民院議員から連合王国庶民院議員に移行し、1802年イギリス総選挙においても無投票で再選した[6]。連合王国庶民院でも引き続き政府(第1次小ピット内閣、アディントン内閣)を支持し、1801年3月10日に初演説した[5]。第2次小ピット内閣が成立すると、1804年5月26日にインド庁委員に任命され[7]、1806年まで務めた[1]。
1805年4月27日に父が死去すると、クランカーティ伯爵位を継承して[1]、連合王国庶民院議員を退任した[5]。同年にゴールウェイ県総督に任命され[1]、1804年から1814年までゴールウェイ民兵隊隊長を務めたものの[3]、ゴールウェイ県における父ほどの人気はなく、議員退任に伴う補欠選挙で野党候補が当選することを阻止できなかった[5]。
官職歴任
1807年4月から1809年までアイルランド郵政長官の1人を務め[1]、1807年5月13日に連合王国枢密院の枢密顧問官に就任[8]、1809年7月7日にアイルランド枢密院の枢密顧問官にも就任した[1]。1807年5月の総選挙ではライ選挙区にて無投票で当選したが[9]、クランカーティ伯爵は直前にアイルランド郵政長官就任により被選挙権を失っており、実際に庶民院議員に再就任することはなかった[5]。
1808年12月16日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1837年に死去するまで務めた[10]。貴族院では1810年から1812年にかけて頻繁に演説し、1810年6月にカトリック解放を支持したものの、1812年にはより慎重な姿勢を示した[2]。また1811年1月には摂政王太子の権力を制限する決議案を擁護した[2]。
1812年9月29日に商務庁長官に任命され[11]、1818年まで務めた[1]。1812年10月に造幣局長官に任命され、1814年9月まで務めた[1]。1814年6月21日に郵政長官に任命され[12]、1816年まで務めた[1]。
駐蘭大使
1813年11月、オラニエ公ウィレム6世のオランダ帰還に同行し[2]、以降1815年まで在オランダイギリス大使を務めた[1]。大使としてウィレム6世を説得して、オランダにおける対仏大同盟軍の指揮権をベルナドットに委ねさせた[2]。1814年夏にはイギリスとオランダの植民地間貿易交渉を行い、摂政王太子の娘シャーロットとウィレム6世の婚約交渉も再開した[2]。1814年8月よりウィーン会議にイギリス代表の1人として出席[1]、百日天下により初代ウェリントン公爵がウィーンを離れてベルギーに向かうと、クランカーティ伯爵がイギリス代表のうち最上位の人物となった[2]。1815年3月にクランカーティ伯爵がカースルレー子爵宛てに書いた手紙ではナポレオン・ボナパルトのエルバ島脱出の報せを聞いた諸国の王族が仰天する様子が形容され、クランカーティ伯爵は会議を決着させるべく王族たちの恐怖を煽るべきだと主張した[2]。1815年4月1日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[13]。ウィーン会議が終結した後[2]、1815年8月4日に連合王国貴族であるゴールウェイ県におけるガーバリーのトレンチ男爵に叙された[1][14]。
1815年末にフランクフルト・アム・マインに赴き、バイエルン王国とバーデン大公国の紛争を調停した[2]。そのため、1816年5月22日に在ネーデルラント連合王国大使に任命されたときにもフランクフルトに滞在していて、すぐには赴任できなかった[2]。この二度目の任期では奴隷貿易の廃止に関する英蘭間の交渉を行い、オランダ・プロイセン王国間の国境紛争を調停した[2]。
1818年7月18日にネーデルラント連合王国の貴族であるフースデン侯爵に叙され、1824年8月16日にイギリス国王の認可状を得て、イギリス国内でもフースデン侯爵の称号を使用できるようになった[1]。1818年に2,000ポンドの年金を得て[2]、1821年にロイヤル・ゲルフ勲章を授与された[1]。1822年3月1日にコノート海軍次官に任命され[15]、1837年に死去するまで務めた[5]。1823年12月に駐蘭大使を辞任[16]、同12月8日に連合王国貴族であるコーク県におけるクランカーティ子爵に叙された[1][17]。
晩年
1822年にカースルレー子爵が死去した後は政界での活動を減らした[4]。1827年3月にカトリック協会の違法化に反対したが、1829年ローマ・カトリック信徒救済法にも反対した[2]。