ローレンス・パーソンズ (第2代ロス伯爵)
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第2代ロス伯爵ローレンス・パーソンズ(Lawrence Parsons, 2nd Earl of Rosse PC (Ire)、1758年5月21日 – 1841年2月24日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族。アイルランド庶民院議員に就任するとヘンリー・フラッドの追随者になり、フラッドの政敵ヘンリー・グラタンと敵対した[1]。フラッドの死後にアイルランドのフランス革命戦争参戦に反対(1794年)、アイルランドが革命に揺れる1798年に政府の強圧政策に反対して民兵隊長からの辞任を余儀なくされた[1]。アイルランドとグレートブリテン王国の合同にも反対したが、1800年合同法が成立した後は連合王国庶民院議員になり、歴代内閣への支持によりアイルランド下級大蔵卿(Commissioner of Treasury、1805年 – 1809年)、アイルランド貴族代表議員(1809年 – 1841年)、アイルランド郵政長官(1809年 – 1831年)を歴任した[2]。
生い立ち
第4代準男爵サー・ウィリアム・パーソンズと妻メアリー(ジョン・クレアの娘)の長男として、1758年5月21日に生まれた[3]。1777年2月7日にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、1780年にB.A.、1783年にLL.B.の学位を修得、1790年にLL.D.の学位を授与された[4]。在学中よりアイルランド庶民院の弁論を傍聴し[5]、1780年にアイルランド反乱法案(Irish Munity Bill)に反対するパンフレットを出版した[1]。同時代のエドワード・クック(Edward Cooke)は「かなり粗末で未熟であるが、『イングランドの権利の章典は恒久の反乱法案を禁じる。アイルランドの権利の章典は恒久の反乱法案である』の一文だけは覚えている」と評した[1]。
フラッドの追随者

1782年7月にダブリン大学選挙区でウォルター・ハッシー・バラの後任としてアイルランド庶民院議員に当選した[1]。議員就任当初のパーソンズは党派政治を嫌ったものの、ヘンリー・フラッドに感服して親しくしたため、実際にはフラッドの影響を受けた[1]。たとえば、パーソンズはフラッドと同じく、1719年宣言法の廃止だけではなく、アイルランドの立法権をイングランドが公式に放棄すること(1783年アイルランド上訴法)を要求し、軍縮による国費節約に賛成、1783年にフラッドが提出した議会改革法案にも賛成した[1]。一方でフラッドに近しいことでフラッドの政敵ヘンリー・グラタンには自然と敵対するようになり、グラタンを自身の立腹のために公共の福祉を犠牲にしたと批判した[1]。小ピットが1785年に提出し、グラタンが支持したアイルランド・イングランド間の自由貿易化、同じくグラタンが支持した十分の一税金納化にいずれも反対した[1]。1789年の摂政法危機でもグラタンと反対の立場をとり、イングランドと同じ政策(すなわち、小ピットが可決させた政策)を支持した[1]。1789年3月にはパーソンズとグラタンが議会で口論する場面があり、グラタンが不在地主をめぐる決議案を動議したところ、パーソンズが賛成演説をすると、グラタンはパーソンズが賛成(second)した場合には決議案を取り下げると宣言した[5]。パーソンズが反発して、演説でグラタンを非難すると、グラタンはパーソンズが「他人(フラッド)が彼の口に入れた憎悪」を吐き出しているだけで、「痛烈に批判する能力のない人でも口汚くなれるという、哀愁を帯びた証明」であると言い返した[5]。
1791年5月1日に父が死去すると、準男爵位を継承した[3]。父はキングス・カウンティ選挙区の現職議員であり、パーソンズは父の死に伴う補欠選挙に当選して、以降1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立するまで同選挙区の議員を務めた[1]。1793年ローマ・カトリック救済法の弁論において、パーソンズはカトリック解放(カトリック教徒にかけられた制約を減らすこと)と選挙法改正が密接に関連する問題であり、一部のカトリックに選挙権を与えることはもはや拒否できない要求であると主張した[1]。すなわち、議論できる部分が選挙権を与える範囲のみであり、パーソンズの主張では20ポンド以上の自由保有権を所有することを条件とし、またカトリックには被選挙権を与えるべきだとした[1]。
革命戦争、合同法をめぐる立場
1794年にフランス革命戦争が勃発して、グレートブリテン王国が参戦したとき、アイルランド王国の参戦に反対したが、失敗している[1]。このとき、一時反戦議員の指導者の地位についたが、反戦議員の人数自体が少なく、政界での盟友が少ない(フラッドは1791年に死去した)うえに政治に対する直感が優れてるわけでもなく、政府の政策への影響力は少なかった[5]。アイルランドの地主としてもスポーツを嫌い、軍隊における鞭打ち体罰に反対し、息子たちをパブリックスクールに送らず家庭教師の教育を受けさせたことで浮いた存在だった[5]。その後、1795年には戦争遂行を支持するようになった[2]。
1796年内乱法(Insurrection Act of 1796)を違憲として反対した[5]。1798年アイルランド反乱直前の1798年3月にアイルランドの状況を調査し、民衆をなだめて平穏を取り戻す施策を推薦する委員会の設立を動議したが、賛成19・反対156で否決され、しかも「誤った慈悲」と批判され[1]、1791年より務めていたキングス・カウンティ民兵連隊隊長からの辞任を余儀なくされた[4]。このとき、パーソンズがユナイテッド・アイリッシュメン協会(1798年の反乱を計画した団体)に加入したと疑う人が出てくる始末だった[5]。反乱が実際に勃発すると、パーソンズは反乱の原因を政府の強圧政策に帰した[5]。
アイルランド王国とグレートブリテン王国の合同をめぐり、1798年よりアイルランド総督を務めていた初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリスはパーソンズが「公平・平等原則」に基づく合同に賛成したと主張したが、パーソンズはそのような主張をしていないと宣言し、実際に議会で合同に反対した[1]。『オックスフォード英国人名事典』もコーンウォリスの主張を事実無根と断じた[6]。1799年1月の国王演説をめぐる弁論では内容から合同を支持する段落を削除する修正案を提出して、賛成109・反対104で可決されたが、1800年1月に同様の修正案を提出したときは賛成96・反対138で否決された[1]。
連合王国庶民院議員
1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立し、連合王国議会が設立されると、パーソンズはキングス・カウンティ選挙区選出議員として連合王国庶民院議員に就任した[5]。連合王国庶民院の総選挙ではキングス・カウンティの地主との合従連衡を制して選挙区への影響力を掌握した[7]。具体的には1802年イギリス総選挙でトマス・バーナードと初代チャールヴィル子爵チャールズ・ベリーと手を組んで現職議員デニス・ボーズ・デイリーを締め出し、1807年イギリス総選挙で初代ドロヘダ侯爵チャールズ・ムーアの助力を借りてジョージ・ポンソンビー閣下を退けた[7]。これにより、パーソンズは1802年と1806年の総選挙にて無投票で再選し、以降も長きにわたって自身の指名する候補を当選させた[7]。パーソンズ自身は1815年にたとえ選挙戦があったとしても自身の影響力が他人を圧倒できると豪語し、『英国議会史』はこの主張を「疑う理由が少ない」と評した[7]。
しかし連合王国議会はダブリンではなくロンドンで開かれ、パーソンズがロンドンに行くことを嫌ったため議会演説がアイルランド庶民院時代と比べてめっきり減った[5](政治への興味が薄れたとする主張もある[1])。
連合王国庶民院でははじめ無所属の立場を貫いたが、アディントン内閣からは内閣支持を勝ち得られる議員と目され、パーソンズは首相ヘンリー・アディントンの要請を受けてフランス統領政府との予備講和条約に賛成した後、官職就任を求めた[2]。アディントンははじめアイルランド財務大臣やアイルランド主席政務官に就任する可能性を提示したが、パーソンズは結局アディントン内閣期では官職にありつけなかった[2]。1804年に第2次小ピット内閣が成立すると、1805年3月にアイルランド下級大蔵卿(Commissioner of Treasury)[2]、1805年5月9日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[4]。ウィリアム・グレンヴィル率いる挙国人材内閣が成立した後も下級大蔵卿に留任した[2]。
このほかに叙爵も求め、1805年12月までに父の異母兄にあたる初代オクスマントン子爵ローレンス・パーソンズに圧力をかけてロス伯爵への昇叙に同意させ、叙爵を実現させた[2]。その後、1807年4月20日に初代ロス伯爵が死去すると、ロス伯爵位の特別残余権(special remainder)規定に基づき爵位を継承した[4]。
貴族院移籍以降
第2次ポートランド公爵内閣期にも下級大蔵卿に留任、さらにアイルランド貴族代表議員への選出を求め、内閣はロス伯爵が3議席への影響力を持つことを鑑みて同意した[2]。こうして、ロス伯爵は1809年10月22日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1841年に死去するまで務めた[8]。また1809年11月に下級大蔵卿を退任して閑職のアイルランド郵政長官に転じ[2]、1831年にアイルランド郵政長官が廃止されるまで務めた[4]。『オックスフォード英国人名事典』はアイルランド郵政長官としてのロス伯爵を「熱心な改革派」と評した[6]。
晩年に政見が反動化し、1830年にダニエル・オコンネルが合同法廃止運動をはじめたときに運動に反対、1833年アイルランド教会収入法の審議では1833年7月23日の演説で法案が合同法に違反すると述べた[4][6]。これがロス伯爵の貴族院における最後の演説となった[6]。
著作
- Observations on the Irish Mutiny Bill(1780年、パンフレット)[6]
- Thoughts on liberty and equality(1793年、パンフレット)[5]
- Observations on the Bequest of Henry Flood, Esq., to Trinity College, Dublin: with a Defence of the Ancient History of Ireland(1795年)[1]
- Observations on the Present State of the Currency of England(1811年)[1]
- An Argument to prove the Truth of the Christian Revelation(1834年)[1]