リチャード・バウム

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リチャード・バウム(Richrd Baum)は、オレゴン小麦栽培者連盟会長、後アメリカ西部小麦連合会会長。

公法PL480を活用しての日本への小麦の売り込みに成功、忍者外交によりアメリカ小麦の市場開拓に奔走してきた業績から、畏敬の念を込めて「小麦のキッシンジャー」とも称される[1]

第二次世界大戦が終わり、兵食として増産されてきた小麦の余剰が見込まれることから、オレゴン小麦栽培者連盟は終戦の3年後の1948年に、大学を出たての若き弁護士リチャード・バウムを雇いアジア市場開拓[注釈 1]の準備を始めていた。1953年には朝鮮戦争も終結し小麦価格の暴落が始まり、そして1954年7月に公法PL480が成立した[3]

公法PL480の成立を機に、オレゴン小麦栽培者連盟は弱冠31才のバウムを会長に起用、1954年9月バウムは小麦の売り込みのため日本を訪問。その際、厚生省公衆衛生局栄養課長の大磯敏雄に資金援助の提案をする[4][5]

大磯らの説得工作が功を奏し、抵抗していた農林省も折れ日本側の体制が整ったことから、1956年4月26日にPL840適用の契約を結び、当面の資金として農務省から委託された40万ドルをアタッシュケースに詰め日本に飛ぶ。5月にはこれをキッチンカーの製作費や栄養改善運動の活動費として提供した[6]

同年10月10日、日産自動車に発注していた8台のキッチンカーが勢ぞろいし[注釈 2]、厚生大臣、農林政務次官などが出席して、出陣式が日比谷公園で行われた[4]。このキッチンカーは日本全国を巡回し栄養改善の指導が行われ、日本人の食生活の欧風化が推し進められた[6][注釈 3]。バウムは「金は出すが口は出さない」との姿勢を取ることにより、好感を得ることに成功している[7]

その後

オレゴン小麦栽培者連盟などアメリカの西海岸の小麦生産者によるアメリカ西部小麦連合会が設立され、バウムはその会長に就任、ポートランドの中心部にあるブラックボックスとも呼ばれるマーケットビル最上階の執務室にて指揮を執り続け[8]、1979年4月にマニラで開かれたアメリカ小麦連合会の極東会議の後、立ち寄った東京で客死(過労による急性心不全)、享年56。来日回数は60を越える[9]

脚注

参考文献

関連項目

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