リチャード・マーシャル (第3代ペンブルック伯)
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| リチャード・マーシャル Richard Marshal | |
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| 第3代ペンブルック伯 | |
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| 在位 | 1231年 - 1234年 |
| 出生 |
1191年ごろ |
| 死去 |
1234年4月15日 |
| 埋葬 |
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| 配偶者 | ジェルヴェーズ・ド・ディナン |
| 家名 | マーシャル家 |
| 父親 | 初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル |
| 母親 | イザベル・ド・クレア |
第3代ペンブルック伯リチャード・マーシャル(Richard Marshal, 3rd Earl of Pembroke, 1191年ごろ - 1234年4月15日)は、初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの息子で第2代ペンブルック伯ウィリアムの弟。1231年4月6日に兄ウィリアムの死によりペンブルック伯位と軍務伯(アール・マーシャル)位を継承した。
リチャードは初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルとその妻イザベルの息子である。父ウィリアムの伝記によると、リチャードは1190年生まれの兄ウィリアムの次に生まれた「次男」とされている。他のマーシャル家の息子らと同じく、リチャードも高い水準の教育を受けた[1]。父がジョン王と争っていた1207年か1208年、リチャードは父の人質として王の元に向かった[2]。後に解放されたものの、1212年に再び王の元に向かった。その後すぐにジョン王自身から騎士に叙せられ、王の侍従として騎士の地位にとどまり、1214年にジョン王のポワトゥーへの遠征に同行したが、遠征中に重病に罹った。1216年の第一次バロン戦争の終結後、リチャードはフランスに渡ったらしく、1219年に父の死の知らせがフランス王フィリップ2世の宮廷に届いたとき、リチャードはフランス王の宮廷にいた。父の遺言書に記されていたとおり、両親はリチャードが母イザベルのノルマンディーの領地を相続することをすでに決めていたため、リチャードがフランス宮廷にいたことは間違いない[3]。
フランス宮廷において
1220年3月に母が亡くなった後、リチャードはロングヴィル城とオーベック城を中心とした広大なノルマンディーの領地を相続した。しかし、両親は最終的な処分において、マーシャル家がイングランド王とフランス王の両方に臣下の礼を取る立場にあることについて解決する機会を持たなかった。リチャードはバッキンガムシャーのロング・クレンドンのイングランドの領主権も継承していた。1220年6月、リチャードと兄ウィリアムはムランでフィリップ2世と会見し、国王は取り決めを受け入れ、リチャードより臣下の礼を受けた。1222年頃、リチャードは2度未亡人となったジェルヴェーズ・ド・ディナンと結婚し、フランスとのつながりが強まった。ジェルヴェーズは父アンドレ・ド・ヴィトレの東ブルターニュの領主権を継承していた。リチャードはこの結婚を利用して、ハンプシャーのリングウッドとノーサンプトンシャーのバートン・ラティマーの荘園に対するジェルヴェーズの権利を確保した[4]。1230年、ブルターニュでの遠征中、リチャードの兄ウィリアムは、何らかの理由で友人のイングランド王ヘンリー3世より、もしウィリアムが遠征から生還できなかったとしても、フランス王ルイ9世の臣下であるにもかかわらず、リチャードがイングランドにおけるマーシャル家の領地の継承に抵抗しないという約束を取り付けた。しかし結局、ウィリアムは1231年にブルターニュから戻った後に病気になり、4月6日に子供を残さずに死去し、伯位はリチャードに引き継がれた[5]。
ペンブルック伯
イングランド王ヘンリー3世はリチャードの兄ウィリアムとの約束を守り、1231年7月25日にリチャードがイングランドに到着すると、喜んで彼を宮廷に迎え入れた。リチャードにとって不運であったのは、兄の死によって、追放されていたジョン王の寵臣でウィンチェスター司教のピーター・デ・ロッシュがイングランドに戻り、司法長官のヒューバート・ド・バラの失脚が企てられたことであった。1233年に権力を掌握した司教の最初の犠牲者の1人は、兄ウィリアムの元支持者の1人、ギルバート・バセットであった。デ・ロッシュの支持者の1人、ピーター・ド・モーレーは、その間にバセットに渡っていた荘園の返還を要求した。ヘンリー3世はバセットに対抗してデ・ロッシュを支持した。バセットが抵抗すると、ヘンリー3世はバセットを裏切り者と罵倒し、その決定に対する抗議デモが失敗した後、バセットはウェールズ辺境領南部に逃亡した。そこでリチャードはバセットに隠れ家を与え、バセットの主張を支援する必要があると感じた[6]。リチャードはあまりにも疑い深かったため、1233年8月中旬にグロスターにおいてヘンリー3世と会って和平交渉を行うことはできなかった。ヘンリー3世は、リチャードの従兄弟の一人であるセント・デイヴィッズ司教を派遣し、領主と臣下の関係を断つと脅して圧力を強めた。政治的な緊張が高まるにつれ、リチャードは9月に王室執行官から駐屯軍に対するウスク城の明け渡しの要求に直面し、駐屯軍はそれに従った。しばらくの間、リチャードが反乱を起こす手前で躊躇していたため、交渉が試みられた。しかし、9月下旬、バセットとその同盟者リチャード・シワードが、リチャードの同意を得てイングランド全土に派手な騎兵襲撃を仕掛け、一時はロンドンを脅かしたため、後戻りはできなくなった[7]。

