リッチモンド宮殿
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当時は農村地帯だったサリーにあり、北東14kmの対岸にあるウェストミンスター宮殿の上流にあった。王位継承前はリッチモンド伯として知られていたヘンリー7世によって1501年頃に建てられたもので、その伯爵名にちなんでシーンの荘園がリッチモンドと改名されていたことから、シーン宮殿がリッチモンド宮殿になった。シーン宮殿もエドワード1世が1299年に手に入れた荘園領主の屋敷が建っていた敷地に建設されたもので、その後同国王の直系子孫3人もこの宮殿を使用したが、その後荒廃した。
新しいリッチモンド宮殿の建設が始まる一年前の1500年、王室の荘園の城下町として発展してきたシーンがヘンリー7世の命によりリッチモンドに改名された。 [1]。ただし、シーンやリッチモンド共に使われている。今日のイーストシーンおよびノースシーンは両地区とも、ロンドン郊外のLondon Borough of Richmond upon Thamesと呼ばれる行政区の管轄下にあり、いずれも昔からシーン荘園内にあったことはなく、19世紀と20世紀に隣のモートレイク荘園・教区の一環として発展した。リッチモンドは1965年4月1日までサリー郡内にあったが、1963年ロンドン政府法の施行によってロンドン首都圏を網羅する広域行政区グレーターロンドンが拡大された時に、同行政区に吸収された。
リッチモンド宮殿は、1603年に亡くなったエリザベス1世が好んだ宮殿で、その後も1649年にチャールズ1世が亡くなるまでイングランド代々の国王や女王がこの宮殿に住んだ。チャールズ1世の処刑後数か月以内にはイングランド国会の命令で不動産鑑定が行われ、宮殿は13,000ポンドで売却された。その後10年にわたって宮殿はほとんど取り壊され、石材や木材は建設資材として他の場所で再利用された。現在では楼門をはじめとするいくつかの痕跡しか残っていない[2](51°27'41"N 0°18'33"W)。宮殿の敷地はリッチモンドグリーンと呼ばれる公園とテムズ川の間にあり、Old Palace LaneやOld Palace Yardといった地元の通りの名称から以前に宮殿があった場所であることがうかがわれる。
歴史
ノルマン時代
ヘンリー1世はシーン荘園を王室のキングストン荘園から切り離し、ノルマン人の騎士爵に与えた[3]。シーン荘園の屋敷は遅くとも1125年までに建てられたとされている。
1299年から1495年
1299年、エドワード1世はテムズ川辺りにあるシーン荘園の屋敷に宮廷を移した。同国王は1305年、スコットランド文民政府確立のための同国使節団をシーンで迎えている[4]。
屋敷が王室の手に戻ったのはエドワード2世の時代で、同国王の廃位後はイザベラ王妃が使用した。1327年に若くして王位についた息子エドワード3世は、母親のイザベラに同邸宅を与えた。イザベラの死後、エドワード3世はこれを拡張して宮殿らしい装飾を整え、最初のシーン宮殿にした。エドワード3世は1377年にシーンで亡くなっている[3]。1368年、ジェフリー・チョーサーはシーン宮殿の王室衛士として仕えた。
シーン宮殿を初めて国王の主な居住宮殿としたのはリチャード2世で、それは1383年のことだった。同国王はここでボヘミア王国出身の妃アンをめとった。12年後にアン王妃が28歳で亡くなると、これをあまりに悲観したリチャードは「宮殿を取り壊して台無しにするよう命じた。この地のこれまでの国王なら、都会に疲れるとよくシーンに向かい、楽しみの場所として使ったもので、レクレーションの場として高く評価されたものだ」と年代記作家ラファエル・ホリンズヘッドは記述している。このためヘンリー5世が1414年に再建に着手するまで、この宮殿はほぼ20年間、廃墟と化した[3]。チューダー朝前の最初の宮殿はシーン宮殿と呼ばれていた。リッチモンドグリーンとテムズ川の間にあり、そのおおよその位置は51°27'41"N 0°18'33"Wで、現在のトランピターズハウスの庭園があるところである。1414年、ヘンリー5世はこの王宮の北側隣接地にシーンプライオリーと呼ばれるカルトジオ会修道院を創立した。
ヘンリー6世はアンジュー家出身の王妃マーガレットを迎え入れるに相応しい王宮にしようと宮殿の再建を継続した。エドワード4世は王妃エリザベス・ウッドヴィルが一生この宮殿に住むことを認めた[4]。
チューダー朝
リッチモンド宮殿再建者ヘンリー7世
1492年、ヘンリー7世はシーン宮殿で大規模なトーナメントを開催した[1]。1497年12月23日、火災で大半の木造建物が破壊されたが、ヘンリーはこれを再建し、自分の伯爵名であるリッチモンドにちなんで新しい宮殿をリッチモンド宮殿と名付けた。この伯爵位はヨークシャーのリッチモンド城に在籍していた地位で、リッチモンド伯という名称はそこに由来する。1502年、新しい宮殿でヘンリー7世の娘マーガレット王女とスコットランドの国王ジェームズ4世との婚約式が行われた。スチュアート王家はこの婚姻を起源とする。ヘンリー7世は1509年にリッチモンド宮殿で亡くなった。
1497年の火災
1497年のクリスマス、国王の部屋で大火災が発生し、宮殿の大部分が破壊された。当時のミラノ大使、レイモンド・ソンチノはこの火災を目にし、概算で60,000ダカットの損害が生じたとした。これは現在の価値で1000万ドル(700万ポンド)に相当する。火災は3時間続いて宮殿の残りの部分にも延焼し、何百人もがパニック状態になって逃げた[5]。中世時代のハンマービーム屋根は、美しい建築だっただけでなく、構造上必要なもので、重い木造の屋根が陥没するのを防いだ。大工にとってこの種の屋根は、中世時代のゴシック大聖堂にあるアーチ型石造天井にあたり、その有名な例はウェストミンスターホールである。こうした屋根では建築家は壁を薄くしても天井を高くでき、横方向の重さを均等に分配することができた[6]。しかしソンチノが描写したような大規模な火災では、王室のクリスマスの中心だったグレートホールのイングリッシュオークの梁がそのまま残る可能性は皆無だった。梁は270°Cを超える炎に包まれたことだろう。古い時代のタペストリーは灰と化し、王冠宝物や王室衣装の多くが焼失した。これには大量の金の布も含まれ、この布は当時の贅沢品で王族だけが身につけたものだが、シーン宮殿では寝具に使われていた[7]。
ヘンリー7世、王の母マーガレット・ビューフォート、妻のヨーク家出身エリザベスは命がけで走って逃げ、国王においては廊下が頭上から落ちてきて間一髪で逃げ出したという記述が残っている。クリスマスの時期だったために、王族の子供たちも一人を除いて全員在宅しており、みな10歳未満だった。マーガレット、メアリー、6歳のヘンリー8世はそれぞれ子守の腕に抱えられて急いで逃げたと描写している。王妃エリザベスにとってはこの火災はひどい打撃だったことだろう。記録によれば、1470年代の子供時代の多くをこの宮殿で過ごしたことから、母親のエリザベス・ウッドヴィルの思い出が詰まっている場所でもあったはずである。エドワード4世は遺言でシーン宮殿を妻に残している。ソンチノはこうした出来事すべてについて記述し、また「王はこの損失を重要視していない。礼拝堂をすべて石造りにして以前の建物よりもずっと立派なものにするつもりだ」と自分の記録に述べている[8]。
リッチモンド新宮殿
新宮殿の建設は1498年に始まった。ヘンリーは自分の作った宮殿をリッチモンド宮殿と名付けたが、これは父親から王位を継承するまで使っていた自分の伯爵名、リッチモンド伯にちなんだものである。この宮殿はイングランド内戦で破壊されたが、建物の断片は今もテムズ川の河岸に残っており、元来王室の狩猟地だったリッチモンドパークも現存する。この狩猟地はヘンリー・チューダー(ヘンリー7世)とチューダー家一族および初期スチュアート家が個人的娯楽に利用した。ヘンリー・チューダーの建てた大規模で豪華な宮殿は、その後長年にわたり王室の暮らしの中心となり、チューダー朝の各国王とジェームズ1世の宮廷の中心として非常に重要な位置を占めた。宮殿の図面や書面は今も残っており、1970年代に実施された敷地の発掘を記録した書類もあるため、この建物の中にあったものと特徴については、後世の者がかなり正確に把握できている。
リッチモンド宮殿は主にレンガと白い石でできた建物で、当時の最新のスタイルで作られており、幾何学模様の八角形の塔やペパーポット型の煙突キャップ、装飾豊かな真鍮製風見鶏などの特徴があった[9]。シーン宮殿のレイアウトを維持したが、新しく加えられた部分はルネッサンス様式で、例えば彫刻や肖像画を飾るための長い廊下が作られた。ヘンリー7世はこのほか、図書室と豪華な礼拝堂も作った[10]。窓はパネル状で、城の防衛のための小さな窓よりも光が多く差し込むように建てられた。宮殿の初期からレジャー用の中庭が複数あり、そのいくつもは王族が大きな庭を眺められるように作られた。リッチモンド宮殿の敷地は10エーカー(4ヘクタール)に及び、果樹園や壁に囲まれた庭園も整えられていた。ヘンリー・チューダーはイタリアの銀行家から受け取った多数の贈り物で自分の住まいを飾ったことが知られているが、こうした品やその他の装具が実在した証拠は17世紀に記録された宮殿の目録として残っており、これはイギリス公文書館に保存されている。この目録には、火事でなくなったタペストリーに代わるものとしてヘンリー7世が作らせた新しいタペストリーについても記述されている。
ヘンリー8世
1509年の終わりには、ヘンリー8世が6人の妻のうちの最初の妻、アラゴン家出身のキャサリンとともにリッチモンドでクリスマスの12日間(クリスマスから十二夜まで)を祝った。この間の催しはエドワード・ホールの年代記に記述されている[11]。こうした祝い事について英作家A.T.トムソン夫人は「ヘンリー8世の宮廷回想録(Memoirs of the Court of Henry the Eighth)」で次のように述べている。
「公現祭(1510年)の夜には、リッチモンドのホールで演劇が行われた。金や宝石が散りばめられた丘がホールに入ってきて、その頂上に立つ金の木には薔薇と柘榴が垂れ下がっていた。丘の斜面を豪華な衣装をまとった貴婦人が降りてきて、当時children of honourと呼ばれた紳士たちと国王の前でモリスダンスを踊った。別の催しでは、宮廷の立会いのもと、金の装飾が豪華に施された皮をまとったライオンとカモシカが人工の森を引っ張りながら入ってきた。この二頭は金の鎖に繋がれ、それぞれの上には華やかな衣装の美しい乙女が腰掛けていた。このようにお披露目された森の中からは金箔の塔が現れ、塔の先に立っている若者の手には薔薇の冠があり、この花冠はこの演劇の後に続いたトーナメントで武勇を讃える賞として使われた!」
ヘンリー8世の息子ヘンリー(コーンウォール公爵)は1511年元旦に生まれたが、その年の2月22日に亡くなった[12]。数年後、国王はトマス・ウルジー枢機卿からハンプトンコートを贈られ、その見返りとして枢機卿はリッチモンド宮殿に住む許しを得た。枢機卿は宮殿で非常に高い地位を維持したため、次第に多くの者に反感をもたれるようになった。国王の支持を失うと、枢機卿はリッチモンドパークのロッジに住まいを移し、その後はカルトジオ会修道院に居住するようになった[4]。
ウルジー枢機卿の伝記を書いたジョージ・キャベンディッシュはリッチモンド宮殿の庭園にある紋章に彫られている野獣を描写している[13]。枢機卿はリッチモンド伯爵位のモチーフとしてよく使われた野獣ダン・カウについて、トーマス・ブーリンの紋章にもあるため、アン・ブーリンとヘンリー8世の関係の不吉な兆しでもあったと述べた[14]。
ヘンリー8世が娘メアリーとその母キャサリンを別居させてから、1531年8月、リッチモンド宮殿はメアリーの主な住まいとなった[15]。メアリーは1533年12月までこの宮殿に住んだが、生まれたばかりの王女エリザベスの侍女になるように命令されてハットフィールドハウスに移った[16]。
1540年、ヘンリーはリッチモンド宮殿を4番目の妻、クリーブス家出身のアンに婚姻無効の合意の一環として与えた[17]。1546年、アンはデイビッド・ビンセントを「シーン、別名リッチモンド宮殿」と新リッチモンドパーク(New Park of Richmond)の管理人に指名した[18]。
メアリー1世
1554年、メアリー1世はスペインのフィリップ王子(のちのフェリペ2世)と結婚した。母親であるアラゴン家出身のキャサリンがリッチモンド宮殿でクリスマスを過ごしてから45年後、二人はこの宮殿(とハンプトンコート)でハネムーンを過ごした。またこの後、同年、妹エリザベスがウッドストック宮殿に移る前にリッチモンド宮殿に囚人として移されている。
エリザベス1世
エリザベス1世が女王になると、新しいリッチモンドパーク(Newe Parke of Richmonde: 現在のOld Deer Park)で鹿狩りをするのを好んだ女王はリッチモンド宮殿で多くの時間を過ごした。エリザベス1世は1603年3月24日にここで亡くなっている。女王の死体ははしけでホワイトホール宮殿に移され、そこに安置された[19]。
スチュアート朝
ジェームズ1世
ジェームズ1世国王はリッチモンド宮殿よりもホワイトホール宮殿を好んだが、1612年に国王が亡くなる直前に長男ヘンリー王子は庭園の水景物の設計をフランスのカルバン派プロテスタントのサロモン・ド・コースとフィレンチェのコスタンティーニ・デ・セルヴィに依頼することができた[20]。チャールズ1世は国王になる前にリッチモンド宮殿を所有し、同宮殿に住んでいる間に美術作品の収集を始めた。エリザベス1世と同様、チャールズ1世は鹿狩りを好み、1637年にはそのために狩猟区を新しく作ったが、ここが現在のリッチモンド公園で、エリザベス1世が「Newe Parke」「Old Deer Park」と呼んでいたものをRichmond Parkに改名したものである。リッチモンド公園には、元の群れの子孫である可能性がある赤鹿が今でも生息しているが、もはや狩猟の対象ではなく、比較的に人慣れしている。
チャールズ1世と宮殿の解体
チャールズ1世は宮殿と荘園をヘンリエッタ・マリア王妃に1626年頃に与え、そこが王室子息の住まいとなった。1649年に国王が死刑に処された数か月後には、国会の命で、建材としてどれだけの価値があるかを把握するためにリッチモンド宮殿の鑑定調査が実施され、13,000ポンドで売却された。その後10年にわたり、宮殿はほとんどが解体され、宮殿の石は建築資材として再利用された。
王政復古
1660年の王政復古後、宮殿と荘園は、国王チャールズ2世の母であり、チャールズ1世の未亡人であるヘンリエッタ王妃(1669年死亡)の手に戻された。内戦中、王妃はフランスで亡命生活を送っていた。宮殿はすでに解体状態にあり、君主不在中にかなり荒廃していた。その後宮殿が再建されることはなかった。
建築と室内装飾
1649年の鑑定調査
1649年に実施された調査について少し述べておくと、グレートホールと呼ばれる大広間は長さ30m、幅12mで、その下端にはスクリーンがあった。「グレートホールの向こうにはかなり広いスペースがあり、床には正方形のタイルが敷かれ、採光がよく、座席が置かれている。北の端には鉛で覆われた時計塔があり、これはこの建物に特別な装飾をもたらしている。」王子の住まいは「軟石で作られた三階建ての建物で、鉛で覆われた14の小塔がある。」これが「家全体に非常に品のある装飾をもたらしていて、この地域では目立つ建物である。」と描写されている。Canted Towerと呼ばれる円形の塔が記載されており、124段の階段がある。礼拝堂は長さ29m、幅12mで、大聖堂型の座席と礼拝用の長椅子が設けられている。王子の庭の隣には、長さ61mの室外ギャラリーがあり、その向こうには同じくらいの長さの室内ギャラリーがある。王室図書室もあった。宮殿への水の供給は3本の配管で行われており、1本は新しいパークの水路から、2本目は町の野原の水路から、3本目はリッチモンドの救貧院の近くの水路から引かれていた。
考古学調査
1997年7月には、チャンネル4の番組「タイム・チーム」シリーズ5の一環として、敷地の発掘調査が行われた。この放映は1998年1月だった[21]。
トイレの革新
この宮殿は史上初めて水洗トイレが設置された建物のひとつだった。水洗トイレばエリザベス1世の名付け子、ジョン・ハリントンが発明したものである[22]。これより前にヘンリー8世がハンプトンコートに水洗トイレを設置している[23]。