リップ・ホーク

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リングネーム リップ・ホーク
リップ "ザ・プロファイル" ホーク
ザ・リッパー
本名 ハーヴィー・モーリス・エヴァーズ
ニックネーム タッグの解体屋
身長 178cm[1]
リップ・ホーク
プロフィール
リングネーム リップ・ホーク
リップ "ザ・プロファイル" ホーク
ザ・リッパー
本名 ハーヴィー・モーリス・エヴァーズ
ニックネーム タッグの解体屋
身長 178cm[1]
体重 106kg(全盛時)[1]
誕生日 1930年6月6日[1]
死亡日 (2012-12-22) 2012年12月22日(82歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ノースカロライナ州の旗 ノースカロライナ州
メクレンバーグ郡シャーロット[1]
スポーツ歴 レスリング[2]
デビュー 1949年[1]
引退 1982年[3]
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リップ・ホークRip "The Profile" Hawk、本名:Harvey Maurice Evers1930年6月6日 - 2012年12月22日)は、アメリカ合衆国プロレスラーノースカロライナ州シャーロット出身。

スウェード・ハンセンとのブロンド・ボンバーズThe Blond Bombers)など[4]タッグマッチの名手として活躍、日本では「タッグの解体屋」の異名を付けられた[5]。駆け出し時代のリック・フレアーも、彼のパートナーに起用されて飛躍のきっかけを掴んだ[2][6]

デビュー後の1950年代は、ノースカロライナをはじめイリノイオハイオセントラル・ステーツなど各地を転戦[1]ジョージアではフレッド・ブラッシーセントルイスではカウボーイ・ボブ・エリスジョニー・バレンタインと対戦し、ジン・キニスキーともタッグを組んだ[7]1961年10月23日にはホームタウンのシャーロットにて、バディ・ロジャースNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[7]

1962年より、地元ノースカロライナを本拠地とするミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング(MACW)にて、スウェード・ハンセンとの金髪ヒールタッグチームブロンド・ボンバーズを結成[8]。以降、小型ラフファイターの司令塔ホークと巨漢パワーファイターの執行者ハンセンというコンビネーションのもと、各地のタッグマッチ戦線を席巻[3][4]1965年8月3日にはフロリダにてデューク・ケオムカ&ヒロ・マツダからNWA世界タッグ王座を獲得[9]1967年5月には日本プロレスに揃って来日、アントニオ猪木&吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した[5]

1968年6月には主戦場のMACWにてエドワード・カーペンティア&ミゲル・ペレスを下し、NWA大西洋岸タッグ王座の初代チャンピオン・チームとなる(以降もネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズなどのチームを抗争相手に、通算4回に渡って戴冠)[10]ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングにも遠征し、1970年4月にバディ・オースチン&カーティス・イヤウケアから豪州版のIWA世界タッグ王座を奪取した[11]。主戦場のMACWでは1972年ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルーと抗争[12]。シングルでも実績を残し、同年上期にジャック・ブリスコ、下期にジェリー・ブリスコを相手にNWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を争い、通算4回に渡ってブリスコ兄弟から同王座を奪取している[13]

1973年末より一時MACWを離れて単身でフロリダ地区に転戦していたが、その間にスウェード・ハンセンがベビーフェイスに転向。1974年のMACW復帰後はハンセンを裏切り者呼ばわりして遺恨試合を展開し、若手ヒールのリック・フレアーを自分の「甥」と称して新パートナーに起用[14]。7月4日にはNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[15]、フレアーにとっては初のタイトル戴冠となった(デビュー2年目のグリーンボーイだった当時のフレアーは、それまで経験したことのない多くのことをホークから学んだと自著で述懐している)[6]

以降はハンセンと袂を分かち、1975年NWFの残党が参画していたアメリカ北東部の独立団体IWAに出場、ネルソン・ロイヤル、ディノ・ブラボージノ・ブリットマイティ・イゴールアルゼンチン・アポロテキサス・マッケンジーなどと対戦し、ミル・マスカラスが保持していたIWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[16]

1976年テキサス西部のアマリロ地区にてハンセンとのブロンド・ボンバーズを再結成。エイブ・ジェイコブズ&ペッツ・ワトレーなどのチームを破り、翌1977年にかけてNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を通算3回獲得した[17](その間の1976年10月には、単身で新日本プロレスに参戦、9年ぶりの来日を果たしている[5])。アマリロではドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクザ・ファンクスとも対戦[18]。ファンクスはアンドレ・ザ・ジャイアント、ボンバーズはサイクロン・ネグロと組んでの6人タッグマッチも行われた[19]

1977年後半にハンセンがアマリロを離れてチームは正式に解散したが[3]、ホークは1980年まで同地区に定着してリッキー・ロメロらと抗争[1]。キャリア末期の1981年カルガリースタンピード・レスリングに出場していた[1]

晩年はテキサス州ハーフォードに居住し、1990年代YMCAにてレスリングのコーチをしていた[2]2007年には、すでに他界していたハンセンと共にミッドアトランティック版のNWA殿堂に迎えられた(殿堂入りのインダクターは、彼らのマネージャーを務めていたゲーリー・ハートが担当した)[20]

2012年12月22日、心臓病のため死去[2]82歳没[2]

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

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