リューベチ諸公会議
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『原初年代記』は、諸公による領土分割に関する話し合いの様子を次のように記している。
スヴャトポルク、ウラヂミル、イゴリの子ダヴィド、ロスチスラフの子ヴァシリコ、スヴャトスラフの子ダヴィド、そして彼の兄弟のオレグがやって来た。平和をうち立てるためにリュベチに集まり、互いに話しあって「…(中略)…スヴャトポルクはイジャスラフの世襲領地キエフを、ウラヂミルはフセヴォロドの世襲領地を、ダヴィド、オレグ、ヤロスラフはスヴャトスラフの世襲領地を」と言った。フセヴォロドはかつて町を分け与えていた。すなわちダヴィドにはヴラジミリの町を、ロスチスラフの二人の子ヴォロダリにはペレムィシリを、ヴァシリコにはテレボヴリを。 — 國本哲男他訳、『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。278頁より引用[注 1]
上記の記述を整理すると、諸公の領土は以下のように分配されたことになる。
- スヴャトポルク2世[A]:年長者としてトゥーロフ・ピンスクを含むキエフに留まり、キエフ大公の称号を持つ。
- ウラジーミル・モノマフ[B]:ペレヤスラヴリ、スーズダリ、ロストフ、スモレンスク、ベロオゼロ。
- ダヴィド[C]とオレグ[D]兄弟:チェルニゴフとシヴェーリア、リャザン、ムーロム、トムトロカン(ru)。
- イーゴリの子のダヴィド[E]:ルーツィクを含むウラジーミル・ヴォリンスキー。
- ヴァシリコ[F]とヴォロダリ[G]兄弟:テレボヴリ、チェルヴェン(ru)、ペレムィシリ。
しかしリューベチでの決定は、内紛を完全に防ぐことはできなかった。この決定事項は、早くもリューベチ会談の同年に、ヴァシリコから領土を奪おうとした、イーゴリの子のダヴィドによって破られた。ダヴィドはヴァシリコを欺いて捕らえ、両目を抉った[1]。この行為は他の公たちの憤慨を招き、諸公間の紛争へと発展した。1100年、ウヴェティチ(現ウクライナ・ヴィターチウ(uk))で、紛争を調停するため新たな会議(ru)が開かれた[2]。
リューベチ諸公会議のもう一つの目的であったポロヴェツ族に対しては、スヴャトポルク2世、ウラジーミル・モノマフらをはじめとする諸公の連合軍が、1103年の会戦でポロヴェツ諸部族の連合軍を破った[3]。1111年のドネツ川上流の戦いでは、ポロヴェツ族に大打撃を与えた。その後はポロヴェツ族の攻撃的な行動は減少し、しばしば、ルーシとポロヴェツの指導者層の間で婚姻が結ばれた。また、ルーシ諸公は他の公との紛争に、ポロヴェツ族の援軍を頼むということも起きた。ポロヴェツ族が最大の脅威であることには変わりがなかったが、時代が下ると共に、上記のようにルーシ諸公とポロヴェツ族との関係は変遷していくことになる。