リーニュ家

From Wikipedia, the free encyclopedia

当主称号 リーニュ公爵
創設 11世紀
リーニュ家
Maison de Ligne
リーニュ家の紋章
当主称号 リーニュ公爵
創設 11世紀
現当主 ミシェル・ド・リーニュドイツ語版
分家 アーレンベルク家
著名な人物 シャルル・ジョゼフ
リーニュ公家の居城ブロイユ城フランス語版
第7代リーニュ公シャルル・ジョゼフは、ウィーン会議を評した「会議は踊る、されど進まず」の言葉で知られる

リーニュ家Maison de Ligne)は、ベルギーの上級貴族の家系。家名はエノー州アト英語版郊外の小村リーニュフランス語版にちなむ。

11世紀にリーニュの小領主から身を起こした。リーニュ家の当主はエノー伯の廷臣となり、主君に随行して十字軍遠征にも何度か参加した。1214年、ゴーティエ・ド・リーニュ(Gautier de Ligne)とフラストル・ド・リーニュ(Flastre de Ligne)はブーヴィーヌの戦いフランスフィリップ2世の軍隊に捕えられ、身代金を払って解放されている[1]。12世紀に男爵位を獲得し、16世紀にはフォコンベルグ伯、17世紀にはエピネー公となった。

1547年にマルク伯家の傍系であるアーレンベルク家の男系が絶えたとき、リーニュ家の傍系であるバルバンソン男爵家のジャン・ド・リーニュが婿入りする形でアーレンベルク家を継いだ。このため、現在でもベルギーの最上級貴族であるリーニュ公家とアーレンベルク公爵家は、男系を同じくしている。

1543年、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール5世に、教皇使節として仕えていた当主ジャック・ド・リーニュオランダ語版は、帝国伯の称号を授けられた。ジャックの妻マリア・ファン・ヴァッセナール(Maria van Wassenaer)はライデン城伯家の女子相続人であり、ヴァッセナールフォコンベルグ英語版フォールブルク英語版などの所領をリーニュ家にもたらした。

ジャックの孫息子ラモラル1世は、1601年に神聖ローマ帝国帝国諸侯ドイツ語版に陞爵したが、帝国諸侯としての実体は全く無かった。リーニュ家はネーデルラントを二分した八十年戦争のあいだ、他のワロン人名門貴族とともにカトリック陣営に残留し、ハプスブルク家に忠誠を誓い続けた。ラモラル1世の孫クロード=ラモラル1世は、シチリア副王およびミラノ総督として活躍した。第6代リーニュ公クロード=ラモラル2世フランス語版は神聖ローマ皇帝軍の陸軍元帥を務めた。その息子の第7代リーニュ公シャルル・ジョゼフは軍人・外交官・文筆家であり、リーニュ家が輩出した最も有名な人物である。

1830年のベルギー独立革命の際、第8代リーニュ公ウジェーヌ1世は独立派の一派からベルギー王位に就くよう打診されたが、これを辞退した。リーニュ家は現在もベルギーの最上級貴族家門の1つであり、ベルギー王室の人々とも親称で呼び合うことを許される特権を有している。

リーニュ公

参考文献

脚注

Related Articles

Wikiwand AI