ペルー北西部のピウラで生まれた。ビセンテ・グレゴリオ・ケサダ(1830-1913)という作家が書いた記事によれば幼いころから絵の才能を認められていて11歳の時にピウラ刑務所に収監されていたロベルト・ティラーという外国の通貨偽造犯の美術家から絵を学んだとされる。1844年にリマに移り、1845年から画家のイグナシオ・メリノが校長を務めるリマの絵画学校で学んだ[1]。
ラモン・カスティーリャ大統領のミニチュアールの肖像画が認められて、1847年にペルー政府からイタリア留学の奨学金を与えられることになり、1848年にイタリアに渡った[1]。ジェノヴァからリヴォルノを経てフィレンツェに到着し、フィレンツェの美術学校で、新古典主義の画家ジュゼッペ・ベッツォーリらのもとで3年間学んだ。1851年に帰国し、1852年にイタリアで描いた作品の展覧会をリマで開くと高い評判を得た。絵画学校の校長に任じられたが翌年2度目のヨーロッパ留学の奨学金を与えられることになり、再びフィレンツェで活動した[1]。1855年に政変でホセ・ルフィーノ・エチェニケ大統領が失脚し、奨学金が停止され帰国しなければならなかった。帰国途中にキューバで活動することにし、キューバでフランス出身の女性と結婚した。
1859年から1861年の間ペルーに戻り、リマの人物の肖像画を描いた後、1862年にまたフィレンツェに渡った[1]。フランシスコ・ピサロに処刑されたインカ帝国の皇帝アタワルパを題材にした大作「アタワルパの葬儀」を6年間かけて完成させた。この作品は1868年にペルーの共和国議会に寄贈された[1]。
1869年に、ヨーロッパにわたる準備中に、ペルーの港町、カヤオで黄熱病で42歳で亡くなった。