ルイージ・ミニキーニ From Wikipedia, the free encyclopedia 生年月日 1783年3月18日出生地 ナポリ王国・ノーラ没年月日 (1861-01-20) 1861年1月20日(77歳没)死没地 アメリカ合衆国・フィラデルフィアルイージ・ミニキーニLuigi Minichini ナポリに凱旋するルイージ・ミニキーニ生年月日 1783年3月18日出生地 ナポリ王国・ノーラ没年月日 (1861-01-20) 1861年1月20日(77歳没)死没地 アメリカ合衆国・フィラデルフィアテンプレートを表示 ルイージ・ミニキーニ(イタリア語: Luigi Minichini、1783年3月18日 - 1861年1月20日)は、イタリアのイタリア統一運動時代の聖職者、革命家、愛国者である。イタリア統一運動の初期にあたるナポリ革命の初期で主導的な役割を果たした。 1783年3月18日、ミニキーニはナポリ王国のノーラの街に生まれる[1]。1798年には地元の神学校に入学し、その後コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会した。しかし1818年には若い修道士を毒殺した疑いがかけられ、サン・ジョヴァンニ・イン・ガルドの修道院を出る事を余儀なくされた。それ以降はキリスト教から一定の距離を置くようになる[1]。 カルボナリに入会後は立憲に傾倒し始め、1820年7月1日には両シチリア王国軍騎兵部隊を率いてノーラで蜂起を起こした[2]。ミケーレ・モレッリやジュゼッペ・シルヴァティといったカルボナリの有力者、グリエルモ・ペペなどの有力将校の協力を受けたミニキーニの蜂起は大規模なものとなり[3]、7月5日にはナポリ郊外のサレルノに到達してフェルディナンド1世を脅かして立憲を約束させること、革命政府を樹立することに成功した[1]。 革命政府内ではミニキーニは民衆からの支持を受ける事が重要と考えていたが、一方でブルジョワとの協力が欠かせないと考えていたモレッリなどと意見が対立。モレッリらが主導権を握ったためナポリを離れてシチリア革命政府との調停や、サルデーニャ王国やロンバルド=ヴェネト王国に点在するカルボナリとの協力関係の構築に尽力するも、いずれも失敗した[1]。 その後オーストリア帝国によりナポリ革命政府は打倒されるがミニキーニはナポリを離れていたため蜂起の主導者でありながら逮捕・処刑を免れた。追われる身となったミニキーニはスペイン、次いでイギリスに亡命してプロテスタントに改宗すると、1825年にはアメリカ合衆国に渡って、その後イタリア統一運動に一切のかかわりを持たなかった[1]。 1861年1月20日、ミニキーニは新聞を通じてイタリア統一が果たされた事を知った一年後にフィラデルフィアで死去した[1]。 脚注 1 2 3 4 5 6 MINICHINI, Luigiイタリア人名辞典 (イタリア語) ↑ 黒須純一郎『イタリア社会思想史 リソルジメント民主派の思想と行動』 26ページ ↑ 森田鉄郎『イタリア民族革命‐リソルジメントの世紀』 63ページ 関連項目 リソルジメント ナポリ革命 カルボナリ グリエルモ・ペペ ミケーレ・モレッリ ジュゼッペ・シルヴァティ 両シチリア王国 典拠管理データベース 全般 FAST ISNI VIAF WorldCat 国立図書館 フランス BnF data アメリカ 人物 トレッカーニ百科事典 その他 IdRef Related Articles