プファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒとその2番目の妻で貴賤婚配偶者だったマリー・ルイーゼ・フォン・デーゲンフェルト(英語版)女男爵の間の第3子・次女。選帝侯家の継承権を持たない13人きょうだい(うち7人が成育)の3番目であり、弟妹たちとともに1667年父選帝侯が母に授与したプファルツ荒地伯(ラウグラーフ(ドイツ語版))の称号を名乗った。異母姉リーゼロッテが最も可愛がった妹であり、それはオルレアン公爵夫人が彼女に宛てた手紙が、非常に親しい仲であることを示す書きぶりであることからも窺える。
貴賤婚の出生子ゆえにプファルツ荒地伯のきょうだいには財産が無く、長女である姉カロリーネを除くと娘たちには花嫁持参金が無かったため誰にも嫁ぐことができず、ルイーゼは2歳年下の妹アメリーゼ(アマーリエ・エリーザベト)とともに、欧州諸国の親類縁者のもとを渡り歩く漂泊の生活を余儀なくされた。ロンドン(1696年7月~1697年7月)、アイゼナハ、カッセル、ベルリン、そしてハノーファーなどが主な滞在地となった。ハノーファー宮廷では、ごく短期間だが叔母の選帝侯夫人ゾフィーの女官長(Großhofmeisterin)を務めた。1701年王位継承法に基づくゾフィーのイギリス王位継承に関する諸問題について顧問の哲学者ゴットフリート・ライプニッツと話し合い、1712年にはライプニッツと書簡をやり取りしている。
1688年に長兄カールッツが亡くなると、大変な苦労を重ねて兄の所領であったシュトライヒェンブルク城(ドイツ語版)及びシュテッバハ(ドイツ語版)村落(現バーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン郡ゲンミンゲンの一部)を、クンケルレーエン(ドイツ語版)(女系親の相続を可とする封土)の形で相続し、見事な経営手腕で所領を繁栄させた。しかしルイーゼが所領を姉の夫でイギリス在住のションバーグ公爵に譲渡すると、所領は再び荒廃状態に戻った。
ルイーゼは信仰篤い改革派(カルヴァン派)信徒であり、ハノーファーに初めて改革派の会堂(Bethaus)を開いた。彼女は1685年にフランスでフォンテーヌブロー勅令が発せられた際に発生した大勢のユグノー難民の救援と保護に力を尽くした。異母姉のオルレアン公爵夫人リーゼロッテと協力して、184名のユグノーを救出したが、その中には多くの説教師が含まれ、その一部にはガレー船漕奴として長年服役し辛酸をなめた者もいた。
晩年は長く隠遁生活を送った。12人の兄弟姉妹には皆先立たれ、彼女の死でプファルツ荒地伯家は完全に絶家となった。遺骸は没地フランクフルトからハイデルベルクに運ばれ、聖ペーター教会内の先に亡くなっていた妹アメリーゼ(1709年没)の隣に埋葬された。黒大理石を使用した姉妹の墓碑銘は現存し、文化財として高い価値が認められている。