ルドルフ・ランバート (第10代キャバン伯爵)
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第10代キャバン伯爵フレデリック・ルドルフ・ランバート(Frederick Rudolph Lambart, 10th Earl of Cavan KP GCB GCMG GCVO GBE、1865年10月16日 – 1946年8月28日)は、イギリス陸軍の軍人、アイルランド貴族。第二次ボーア戦争を経て第一次世界大戦に参戦、西部戦線のロースの戦いとモルヴァルの戦いで戦功を挙げた[1]。1917年秋よりイタリア戦線に異動、1918年3月にイタリア方面軍の総司令官に就任、10月のヴィットリオ・ヴェネトの戦いで氾濫していたピアーヴェ川を渡ってオーストリア=ハンガリー軍を敗走させ、イタリア戦線を消滅させた[1]。戦間期では1922年から1926年まで陸軍参謀総長を務め、ゲッデス報告書が求める緊縮財政を達成すべく軍縮を進めたが、陸軍大臣が頻繁に更迭されたこともあり、改革がさほど進展しなかった[1]。軍人としての最終階級は陸軍元帥(1932年)[1]。
生い立ち
第9代キャバン伯爵フレデリック・ランバートと妻メアリー・スニード(Mary Sneade、1846年2月20日 – 1905年8月2日、ジョン・オリーヴの娘)の息子として、1865年10月16日にハートフォードシャーのアヨット・セント・ローレンスで生まれ、11月19日に同地で洗礼を受けた[2]。1870年から1875年まで家庭教師の指導を受けたが、10歳のときにサマセット州クリーヴドンの学校に送られた[1]。クリーヴドンでは興味を持つ教科に熱心に勉強し、父の影響を受けて苦手な乗馬を練習した[1]。また家庭教育により本と音楽を好んだ[1]。
陸軍士官となる
1879年から1884年までイートン・カレッジに通い[3]、在学中の1882年に王立陸軍大学の入学予備試験に合格、1884年に入学試験に合格、1885年1月に入学した[1]。これにより士官候補生になり、1885年8月29日に中尉としてグレナディアガーズに配属された[4]。しかし最初に参加した閲兵式ではズボンが合わず(丈が長すぎでウエストがゆるすぎた)、体がかなり太く見えたためFatty(「ファティ」、でぶを意味する)のあだ名がつけられた[1]。この時期のキルコージー子爵(1887年の祖父の死後より使用した儀礼称号)は無鉄砲で賭博にはまり、2,000ポンドの債務を背負ってしまった[1]。キルコージーは後に債務を返済したものの、父にお小遣いを減らされ、陸軍から辞任するよう説得を受けた[1]。
1891年4月29日、カナダ総督のエー=ド=カンに任命された[2][5]。キルコージーはカナダで2年間過ごし、余暇活動ではクリケット、テニス、サケ釣り、ロッキー山脈でのカモ狩りをした[1]。1893年に帰国すると同年に結婚、新婚旅行でスコットランドを訪れた[1]。
第一次世界大戦以前の軍歴
1897年に連隊のアジャタント(連隊長の副官)に任命され[6]、同年10月26日に大尉に昇進した[7]。1900年3月17日にアジャタントを辞した[8]。1900年7月14日に父が死去すると、キャバン伯爵位を継承した[2]。第二次ボーア戦争では1900年から1902年まで参戦、1901年9月4日に殊勲者公式報告書に名前が記載された[9]。戦争中、キャバン伯爵は第7中隊を率いて3,000マイル (4,800 km)も行進し、ブールを5足履きつぶしたが、伯爵の日記によれば敵のボーア人に遭遇することは少なく、戦争中に聞いた銃声が(第一次世界大戦の)1915年か1916年の1日間の戦闘と同じぐらいだったという[1]。1902年10月28日に少佐に昇進した[10]。1904年より再びアジャタントを務め、1906年にグレナディアガーズ第1大隊の副指揮官、1908年2月14日に中佐(第1大隊指揮官)に昇進した[1][11]。1910年6月29日にロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバーを授与され[12]、1911年10月4日に大佐に昇進した後[13]、1912年2月14日に半給となり[14]、1913年11月8日に一旦軍務から引退した[15]。
1902年8月9日、エドワード7世と王妃アレクサンドラの戴冠式に出席した[16]。1911年6月22日、ジョージ5世と王妃メアリーの戴冠式に出席した[17]。
ハートフォードシャーの治安判事と副統監を務めた[18]。
第一次世界大戦

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、キャバン伯爵は同年8月に准将の臨時階級を与えられ[19]、国防義勇軍の第2ロンドン旅団長に任命された[1]。ビズリーを行軍中、指令を受けて第4歩兵旅団長に任命され、フランスに向かった[1][20]。
フランスに到着すると、第2歩兵師団長チャールズ・モンローから「あなたの旅団はそこの山にいる、死守せよ」の命令を受けた[1]。そして、同年11月の第一次イーペル会戦にてキャバン伯爵は大きな戦功を挙げた[1]。ダグラス・ヘイグからジョン・フレンチへの報告書によると、キャバン伯爵はイーペル南東のツィレベケにあるイギリス軍右翼で、人数を大きく減らした部隊を指揮して、2週間もの間陣地を死守したという[1]。これにより1914年11月20日に殊勲者公式報告書に名前が記載された[21]。その後も1915年1月14日[22]、1915年5月31日[23]、1915年11月30日[24]、1916年4月30日[25]など殊勲者公式報告書への記載が頻繁にあった。1915年2月18日、バス勲章コンパニオンの授与が決まり[26]、7月に正式に授与された[1]。1915年6月に第50(ノーサンブリアン)師団司令長官に任命され[1]、6月29日に少将に昇進した[27]。しかし7月には新設されたガーズ師団の司令長官に転じ、10月のロースの戦いに参戦した[1]。この戦闘について、キャバン伯爵は日記で「私が率いた戦列の守備はガーズの年代記の中でも輝かしい一章だった」と記述した[1]。1915年9月、フランス第三共和政よりレジオンドヌール勲章コマンドゥールを授与された[28]。
この間に本国では1915年9月24日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1946年に死去するまで務めた[29][30]。
1915年12月に第14軍団司令官になり、1916年8月までイーペルの突出部で戦った[1]。この間にポーペリンゲでタルボット・ハウス(Talbot House、イギリス兵の休憩所)が建てられ、キャバン伯爵はタルボット・ハウスを定期的に訪れ、そこのチャペルで祈りを捧げた[1]。1916年1月11日、中将の臨時階級を与えられた[31]。8月に第14軍団を率いてソンム川に移動、ブレイ=シュル=ソンムに本営を構えて、9月のモルヴァルの戦い、レブの戦い(ソンムの戦いの一部)で大損害を出しながら両村の占領に成功した[1]。1916年11月2日、ベルギー王国から王冠勲章グラントフィシエを授与された[32]。同年に聖パトリック勲章を授与された[18]。1917年1月1日、中将に昇進した[33]。
1916年の冬をソンム川で過ごした後、1917年にイーペルの突出部に戻り、同年夏のパッシェンデールの戦いに参戦した[1]。秋にサー・ウィリアム・ロバートソンから指令を受けてイタリア戦線の立て直しを命じられ、現地に赴いたが、内閣がすぐに方針転換したため、第14軍団司令官に留任した[1]。1917年9月25日、フランスよりレジオンドヌール勲章グラントフィシエを授与された[34]。1918年1月1日、バス勲章ナイト・コマンダーを授与された[35]。1918年3月10日、イタリア戦線におけるイギリス軍の総司令官に就任した[36]。1918年6月25日、大将の臨時階級を与えられた[37]。同年秋にイギリスとイタリアの混成軍であるイタリア第10軍の指揮官になり、10月のヴィットリオ・ヴェネトの戦いで氾濫していたピアーヴェ川の渡河に成功し、オーストリア=ハンガリー軍を敗走させ、11月4日にはイタリア・オーストリア間のヴィラ・ジュスティ休戦協定でイタリア戦線の戦闘が終結した[1]。この戦功を受けて、国王ジョージ5世がキャバン伯爵に感謝の手紙を書いた[1]。
戦後の1918年11月、イタリア王国より戦功銅章とサヴォイア軍事勲章司令官を授与され[38]、1919年3月にサヴォイア軍事勲章上級士官を授与された[39]。さらに1919年8月には聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士を授与された[40]。1919年国王誕生日記念叙勲の一環として1919年6月9日に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された後[41]、1919年7月にアメリカ合衆国より功労章を[42]、1920年2月に北京政府より1等文虎勲章を授与された[43]。
戦間期

帰国したキャバン伯爵は引退を検討したが、妻の説得を受けて次の任命を待つことにした[1]。妻の死去と前後して、キャバン伯爵は1920年3月22日に名誉職のロンドン塔副長官[44]、10月1日に国王のエー=ド=カン(副官)に任命された[45]。そして、11月2日に初代ローリンソン男爵ヘンリー・ローリンソンの後任として待望の軍職であるアルダーショット軍団総司令官に任命された[46]。1921年11月2日、陸軍大将に昇進した[47]。1922年1月2日、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[48]。
1921年11月、ワシントン会議に出席する外務大臣アーサー・バルフォアの軍事顧問としてアメリカに赴いた[1]。陸軍参謀総長初代準男爵サー・ヘンリー・ウィルソンの任期が1922年2月に終わるため、会議中にキャバン伯爵が陸軍参謀総長への就任を打診された[1]。キャバン伯爵はアルダーショットで軍を鍛えようとしており、陸軍省勤務の経験がなく、より経験豊富な軍人を差し置いて就任することに遠慮がちだったが、結局打診を受け入れ[1]、1922年2月19日に任命を受けた[49]。
ワシントンD.C.から帰国すると、ゲッデス報告書(エリック・ゲッデス率いる委員会が提出した、緊縮財政を提言する報告書)に基づく陸軍軍縮を検討、1923年11月に「今日の陸軍は規模削減にもかかわらず、より強く打撃を与えられる、早く動けるよう努力することを決意している」と宣言した[1]。キャバン伯爵の任命は陸軍の中では人気があった[1]。キャバン伯爵は陸軍参謀総長として大臣の要求を満たすために働いていると述べたが、この時期には陸軍大臣が頻繁に更迭され、キャバン伯爵は在任中に改革がほとんど進展しなかったと批判された[1]。
1925年5月23日、アイリッシュ・ガーズ隊長に任命された[50]。1926年新年記念叙勲の一環として1926年1月1日にバス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[51]。同年2月19日に陸軍参謀総長の任期4年が満了し、キャバン伯爵は軍務から引退した[1][52]。
1927年にヨーク公ジョージ(後の国王ジョージ6世)夫婦の外遊に同伴した[1]。帰国後、同年7月8日に大英帝国勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[53]。1928年12月15日にベッドフォードシャー・アンド・ハートフォードシャー連隊の隊長に任命され[54]、70歳定年により1935年10月16日に退任した[55]。1929年7月23日に儀仗衛士隊隊長に任命され[56]、1931年11月に辞任した[57]。1932年10月31日、陸軍元帥に昇進した[58]。
1934年にイギリス領インド帝国を訪問して、同地に駐留するベッドフォードシャー・アンド・ハートフォードシャー連隊を閲兵した[1]。1937年5月12日のジョージ6世と王妃エリザベスの戴冠式に出席した[59]。1938年10月にイタリアで国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と首相ベニート・ムッソリーニに謁見、後にキャバン伯爵が回想したところでは「兵士同士」のように話したという[1]。
晩年
第二次世界大戦が勃発するとロンドンから疎開し、ハートフォードシャーのルータム・パーク、次いでエディンバラ近郊のノース・ベリックに引っ越した[1]。また、1918年にイタリアから授与された勲章の綬を(政府の命令を受ける前に)外した[1]。1926年より回想録を書き始め、戦争中にも執筆をつづけた[1]。
1946年8月に病気になり、前立腺の手術を経て8月28日にデヴォンシャー・プレイスのロンドン・クリニックで心臓発作により死去、31日にアヨット・セント・ローレンスの家族墓地に埋葬された[1]。弟ホレス・エドワード・サミュエル・スニードが爵位を継承[3]、その息子マイケル・エドワード・オリヴァー(後の12代伯爵)が遺産の大半を相続した[1]。
人物
『オックスフォード英国人名事典』によれば、キャバン伯爵は士官として成功するには本を読み、海外を旅し、適切な外国語を学ぶ必要があると考えたという[1]。規律を重視し、部下への指令はわかりやすく伝達すべきという考えを持つ人物だった[1]。同時代の人物、特に陸軍の間で評判が良く、初代クロフト男爵ヘンリー・ぺージ・クロフトはキャバン伯爵を「常識的な将軍」、キャバン伯爵の前任者である陸軍参謀総長サー・ヘンリー・ウィルソンはキャバン伯爵を「純粋」(innocent)、アレグザンダー・ゴッドリーはキャバン伯爵が「謙虚と誠実な人柄により多くの友人に恵まれた」と評した[1]。
家族
1893年8月1日、キャロライン・イネズ・クローリー(Caroline Inez Crawley、1870年2月6日 – 1920年6月15日[3]、ジョージ・バーデン・クロウリーの娘)と結婚したが[2]、2人の間に子供はいなかった[18]。
1922年11月27日、ヘスター・ジョーン・マルホランド(Hester Joan Mulholland、1888年11月30日[60] – 1976年、A・E・マルホランドの未亡人、第5代ストラフォード伯爵フランシス・ビングの娘)と再婚[3]、2女をもうけた[18]。2人はバッキンガム宮殿での舞踏会で出会った[1]。
- エリザベス・メアリー(1924年10月16日 – 2016年12月8日) - 1949年7月20日、マーク・フレデリック・カー・ロングマン(Mark Frederic Kerr Longman、1972年9月6日没、ヘンリー・カー・ロングマンの息子)と結婚、子供あり[18]
- ジョアンナ(Joanna、1929年12月8日 – ?) - 1955年11月3日、マイケル・ゴドウィン・プランタジネット・ストートン(Michael Godwin Plantagenet Stourton、ジョン・ジョセフ・ストートン閣下の息子)と結婚、子供あり[18]