ルートヴィヒ・ベック
ドイツの陸軍軍人
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概要
経歴
生い立ち

ライン河畔のヘッセン大公国ビーブリヒで、由緒ある軍人の家に生まれた。アビトゥーア合格後の1898年にドイツ帝国陸軍に入営し、ストラスブール(現在のフランス北東部)にあるプロイセン陸軍第15上エルザス野戦砲兵連隊に所属した。1899年にナイセ陸軍学校を卒業し、少尉に任官した。1902年から1903年にかけて砲兵・工兵学校に進学し、1908年から1911年にかけてはプロイセン陸軍士官学校で学んだ。翌年3月からはベルリンのプロイセン参謀本部に配属となり、1913年には大尉にしている。
第一次世界大戦
第一次世界大戦では参謀将校として西部戦線に従軍し、勃発時には第6予備軍団の参謀将校を、1916年には第117歩兵師団、第13予備師団の参謀将校を務めた。同年の終わりには、ドイツ皇太子軍集団司令部の参謀本部に異動となり、1918年4月18日には少佐に昇進した[1]。
ヴァイマル共和国時代
戦後、ヴァイマル共和国の陸軍に残り、さまざまな幕僚や指揮官の任に就き、ハンス・フォン・ゼークトの代理も務めた。1922年10月1日には、ミュンスターの第6プロイセン砲兵連隊に、翌年には同じくミュンスターにある第6軍管区司令部に配属された。その後ドレスデンにある第4師団の幕僚として4年間勤務し、1927年10月1日にはウルムにある第5砲兵連隊の連隊長を務め、大佐に昇進した。
ウルム国軍訴訟事件
1930年9月、10月、ベックはライプツィヒで開かれた陸軍将校3名(リヒャルト・シェリンガー中尉、ハンス・ヴェント大尉、ハンス・ルディン中尉)の裁判において、検察側証人の一人として出廷した。3人は急進右翼政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の支持者ないし党員であり、連隊内でナチ党のパンフレットを配っていたところを逮捕され、これが国軍内で禁じられている軍人の政党活動として起訴された。裁判で3人はナチ党員であることを認め、軍人が党員であることは禁止されるべきではないと弁明した。3人が逮捕されたとき、彼らが所属していたウルム第5砲兵連隊の連隊長を務めていたベック大佐はこれに激怒し、証人として出廷した裁判で彼らの人格の良さを強調しながら、彼らの活動を擁護し、ナチ党は善のための党であり、軍人の党員資格は禁止されるべきではないと主張した[2]。また、シェリンガーは裁判において、将来の戦争についてナチ党と国軍はパートナーとして手を取り合い、ヴェルサイユ条約を破棄する「解放戦争」を行うべきだと語ったとき、ベックもそれに共感し、シェリンガーの発言を支持した。なお、シェリンガーは後にナチ党に幻滅し、共産党の活動に加わっている。
1931年2月1日に少将に昇進したベックは、翌年にドレスデンの第4砲兵師団の司令官に就任した。1932年10月1日には、フランクフルト (オーダー)の第1騎兵師団の司令官を1年間務め、同年12月1日には中将に昇進した。 1931年と1932年にかけて、ヴェルサイユ条約で禁止されている参謀本部機能の偽装組織である兵務局で、ドイツ陸軍の作戦マニュアル『Truppenführung』を出版する陸軍作家グループを率いた[3] 。第1節は1933年に、第2節は1934年に公布され、現在もドイツ連邦軍では修正版が使用されている[4]。ジョン・ウィーラー=ベネット卿などの歴史家は、ベックがハンス・フォン・ゼークトの「指導者の軍隊」(Führerarmee)の原則を意図的に歪曲し、それを政治に適用しようとしたことを指摘している[2]。
ナチス時代
1933年、ナチ党の権力掌握を目の当たりにしたベックはそれを二つ返事で迎えた。
私は何年も政治革命を願ってきたが、今その願いがかなった。
1934年8月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の死によって、ヒトラーは大統領の権限を吸収し総統となり、国軍最高司令官の地位を引き継いだ。ベックはヒトラーの最高司令官着任が国軍にとって有益になると信じていた[5]。
1933年10月、ベックは国防省軍務局長に就任し、1935年にヒトラーがヴェルサイユ条約の軍事条項破棄を宣言した後、晴れて伝統ある参謀本部が復活し、ベックは初代参謀総長に就任した。以後参謀総長として新生ドイツ陸軍の建設と再軍備に邁進する。参謀総長就任に伴い、ベックは砲兵大将に昇進した。参謀総長としてベックは、ベルリン郊外のリヒターフェルデの質素な家に住み、毎日9時から19時まで勤務していた[5]。ベックはその知性と労働倫理で広く尊敬されていたが、しばしば他の将校から些細なことにも関心が高すぎるという批判を受けていた。なお、ベックの参謀本部の役割に関する見解では、国防省およびその長である国防大臣は単なる事務官として役割を果たしているに過ぎず、参謀総長はヒトラーおよび帝国指導部に直接助言できる立場にあった。この見解に対し、国防相ヴェルナー・フォン・ブロムベルクは反発した[6]。
ベックは装甲部隊の開発を奨励したが、ハインツ・グデーリアンなどのパンツァー戦の支持者が望む程度にはならなかった[7]。ベックは、ドイツの軍事力を1919年以前の水準に回復させることが極めて重要であると考えており、1933年後半からは、ヒトラーが考えていた以上の軍事費の増費を提唱している[8]。また、ベックは再軍備の完了に伴い、ドイツは中央および東ヨーロッパへの拡大のための戦争を行うべきだと考えており、ドイツをヨーロッパの最重要国とし、これらの地域をドイツの影響圏に位置づけるべきだと主張した[9]。

ヴェルナー・フォン・フリッチュ (左) (1937年)
1936年、ベックはラインラント進駐において、フランスの反応を恐れたブロムベルクに対抗してヒトラーを強く支持し、同地帯の再武装を推進した[10]。1937年後半から1938年初頭にかけて、ベックはドイツ軍の階層における参謀本部の地位と重要性について、他の将校との対立を深め、すべての重要事項決定を参謀本部に移すことを望んでいた[10]。
1937年11月5日、ヒトラーが外務相コンスタンティン・フォン・ノイラート、戦争相(国防相から改称)ブロムベルク、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ、そして参謀総長ベックらに対し、オーストリアとチェコスロバキアへの拡大と、その障壁になりうるイギリス、フランスなどの西側諸国を相手取った戦争計画を打ち明けると、ベックはヒトラー外交の無責任さに愕然とした[11]。同年5月にベックは、ドイツのオーストリア併合(アンシュルス)計画の実行命令を作成するよう命じられ、ベックは反対はせず、ドイツのオーストリアに対する侵略によって世界大戦が起こらないことを確信して、実行命令を迅速に作成した[12]。しかし、軍事テクノクラートとしてベックは、当時のドイツの軍事力ではイギリス、フランスを相手に戦った場合に勝算の薄いことを見越し、ヒトラーの西側諸国に対する威圧的な外交政策には懐疑的であった。ドイツを大戦前の強国に戻すために、ヒトラーが主張するチェコスロバキアに対する攻撃自体にはオーストリアの時と同様、反対はしなかったが、少なくとも再軍備が完了した1940年以降にするべきだとみていた。しかし、1938年にヒトラーの計画通りに、チェコスロバキア国内に少数民族として生活するドイツ系住民の民族自決に関わるズデーテン問題が先鋭化したとき、ベックら一部の陸軍将官は、ヒトラーがチェコ侵攻を命じた場合、戦争を回避するためにヒトラーを逮捕するクーデター計画を準備していた。ベックはヒトラーの戦争計画に対して将軍たちが一致団結して行動を起こすよう働きかけ、将軍たちが一斉に辞任することを後に新陸軍総司令官に就任するヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ将軍に提案した。同年8月4日に12人の将軍がブラウヒッチの私邸に集まり開催された将軍会議では[13]、将軍たちは皆、ヒトラーによる戦争の拡大を大惨事と捉えていた。チェコスロバキアへの軍事侵攻が必然的に西側諸国との戦争につながるかどうかという議題では、親ナチ派のエルンスト・ブッシュ将軍とヴァルター・フォン・ライヒェナウ将軍だけが反対した。ライヒェナウは間もなく、ヒトラーにこの会合について報告すると、ヒトラーはベックの参謀総長からの解任を要求した[14]。なおベックらのクーデター計画や将軍たちのストライキ計画は、英仏両国がミュンヘン会談でドイツに譲歩し、チェコ侵攻命令は出されなかったため、実行されなかった。
国防相ブロンベルクと陸軍総司令官フリッチュが解任されたのに伴い、ベックは抗議として1938年8月に参謀総長職の辞表を提出し、上級大将への昇進と第1軍司令官を拝命した直後の同年10月に退役し、以後軍務に戻る事はなかった。辞任の際ヒトラーは、自分が恐れている唯一の将校はベックだけだと打ち明け、「あの男は何か行動を起こす力がある」と主張していた[15]。
抵抗運動と死
間もなく第二次世界大戦が勃発。ベックの予測と異なりドイツ軍は最初は快進撃を続けたものの、結局は劣勢になり敗戦は避けられない見通しになった。戦争中はベルリンの自宅に引きこもって暮らしており、彼の自宅は次第に抵抗運動サークルの拠点となっていった[16]。そのため、彼の自宅はゲシュタポによって常に監視されていた。既にベックは退役していたものの、カール・ゲルデラーと共に反ヒトラー抵抗運動の中心人物となっていた。ただし今日では、ベックの批判の対象はヒトラーの軍事・外交指導の誤りであって、独裁体制そのものではなかったとみなされている。
1943年1月8日、ベックの指導のもと軍事および民間の抵抗運動サークルである「クライザウサークル」がベルリンこアパートで初めて会合が開かれた。数度にわたりヒトラー暗殺計画と新政府樹立が立案されていたが、その中では成功の暁にはベックが「帝国摂政」として国家元首に就任し、首相就任が予定されたゲルデラーと共に、ドイツを破滅から救うために連合国と停戦交渉をすることになっていた。
ベックはナチズムに批判的な知識人が集まる「水曜会」のメンバーでもあり、その一部は後のヒトラー暗殺計画に参加した。この協会にはベックの友人で外科医のフェルディナント・ザウアーブルッフも所属しており、ベックは協会の会合以外でも時折ザウアーブルッフの自宅を訪れていた。ベックが癌を患った際もザウアーブルックが手術した。しかし、ザウアーブルックは具体的なヒトラー暗殺計画のことについては何も知らされておらず、暗殺が2日後に予定されていた1944年7月18日に、ベックを共謀者のフリードリヒ・オルブリヒト将軍のもとへ車で送ったという[17]。
1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により爆弾による暗殺・クーデター作戦が実行されたが、失敗に終わった。ベックはベルリンで逮捕され、フリードリヒ・フロム将軍の黙認を得て自殺する機会を与えられたが、ピストル自殺に失敗し重傷を負った。フロムの命を受けた部下によりとどめの一発を受け、ベックは拷問や不当かつ不名誉な裁判といったナチスの非道な報復を避けることが出来た。
ベックの遺体は7月20日の他の犠牲者たちとともに、ベルリンのシェーネベルクの旧聖マティウス教会墓地に埋葬された。しかしその後まもなく、 親衛隊によって遺体は掘り起こされ、火葬場で焼かれた後、遺灰はベルリンの排水処理場に散骨された。
評価

参謀総長時代にはハインツ・グデーリアンの戦車部隊の集中運用に懐疑的で、ベックは古い型の将軍であったとも評される。一方では1936年初頭には戦車部隊における対戦車攻撃力の重視や戦車部隊の集中投入、攻撃的な運用が可能な完全自動車化師団の設立を支持する報告書も書いており、先進的な部分も見受けられる。彼の悪評にはグデーリアンと保守的な参謀本部将校の間で板挟みになってしまった結果という面もあると思われる。
ベックはあくまで軍人であり、その政治姿勢は決して民主主義的でも平和主義的でもなかったが、ナチス体制下においてヒトラーに抵抗した人物として、今日のドイツでは高い評価を受けている。
栄典
文献
(ベックの戦略論についての言及を含む。ベックの軍事戦略思想についてクラウゼヴィッツとの共通性を論じている)
- Wheeler-Bennett, John (1967), The Nemesis of Power: The German Army In Politics, 1918–1945, London: Macmillan
- May, Ernst (2000), Strange Victory, New York: Hill & Wang
- Murray, Williamson (1984), The Change in the European Balance of Power, 1938–1939 The Path to Ruin, Princeton: Princeton University Press, ISBN 978-0-691-05413-1
- Müller, Klaus-Jürgen (1985), “The Structure and Nature of the National Conservative Opposition in Germany up to 1940”, in Koch, H. W., Aspects of the Third Reich, London: Macmillan, pp. 133–178, ISBN 978-0-333-35272-4
- Müller, Klaus-Jürgen (1983), “The German Military Opposition before the Second World War”, in Mommsen, Wolfgang; Lettenacke, Lothar, The Fascist Challenge and the Policy of Appeasement, London: George Allen & Unwin, pp. 61–75, ISBN 978-0-04-940068-9
- Weinberg, Gerhard (1980), The Foreign Policy of Hitler's Germany Starting World War II, Chicago: University of Chicago Press, ISBN 978-0-226-88511-7
- Wheeler-Bennett, John (1967), The Nemesis of Power: The German Army In Politics, 1918–1945, London: Macmillan