ラインラント進駐
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第一次世界大戦後、1919年6月28日にドイツと連合国は平和条約であるヴェルサイユ条約に調印した。同条約の第42条と第44条には、ドイツは「ライン川左岸以西並びに右岸沿い幅50kmに要塞等の軍事施設を建築・維持してはいけない」と定められていた。更に、条項に違反する行為が「どのような形でも」行われた場合、これは、「連合国に対する敵対的行為、…そして、世界の平和を脅かす行為とみなす」[1]とされていた。
1925年のロカルノ条約でドイツ、フランス、イギリスはラインラントの非武装を確認した。
ヴェルサイユ条約は、ラインラントに駐留する連合国の軍隊が同地から1935年には撤兵することも規定していた。
1929年、ドイツの賠償金に関するハーグ会議において英国代表フィリップ・スノーデン財務大臣とアーサー・ヘンダーソン外務大臣は賠償金の低減とイギリス及びフランスの軍隊がラインラントから撤兵することを提案した。ヘンダーソンは全ての連合国の占領軍がラインラントから1930年6月までに撤兵するようにフランス首相アリスティード・ブリアンを説得した。これを受け、イギリス軍は1929年末までに、フランス軍は1930年6月に同地から撤兵した。
ラインラントの再武装
1936年1月、前年3月に再軍備宣言をしたアドルフ・ヒトラーは、ラインラントに軍を進めることを決め、2月12日に国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍に意図を知らせ、陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュに歩兵大隊と砲兵中隊をラインラントに進めるに何日かかるかを聞いた。フリッチュは部隊編制に3日かかると答えた。彼自身は、ドイツ軍がフランス軍と戦争できる状態に無いと信じていたので、交渉での解決を望んでいた[2]。ルートヴィヒ・ベック陸軍参謀総長は、ヒトラーにドイツ陸軍はフランス軍の反撃からドイツを防衛することはできないと警告した[3]。ヒトラーは、フランス軍がドイツ軍の進軍を止めるために軍事介入を行うようであれば、ドイツ軍は即座に撤兵すると言ってフリッチュを安心させた。作戦は、冬季演習の秘匿名称の下に、フランス政府の省庁が休みになる土曜日に実施された。1936年3月7日の夜明け後すぐ、19個の歩兵大隊と少数の航空機が非武装地帯のラインラントに入り、午前11時にはライン川右岸に到着。その後、3個大隊がライン川を渡った。しかしその頃、偵察部隊が数千のフランス兵が独仏国境に集結しているとの報告をもたらした。ブロンベルク国防相はヒトラーに撤収を進言したが、ヒトラーはフランス軍が国境を越えていないとの報告を受け、ブロンベルクに何かがおきるまでフランス軍は何もしない、ただ待っているだけだと保証した[4]。
第二次世界大戦後、フランス軍に尋問されたドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍は、「もし、1936年にフランス軍がラインラントに進軍すれば、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう」と答えた[5]。また、ヒトラーもフランスが動かないという確信を持っていたわけではないと後年、以下のように述懐している。
「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」[6]
