レスター・メルローズ

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生誕 Lester Franklin Melrose
(1891-12-14) 1891年12月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州サムナー
死没 (1968-04-12) 1968年4月12日(76歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州レイク
職業
レスター・メルローズ
Lester Melrose
生誕 Lester Franklin Melrose
(1891-12-14) 1891年12月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州サムナー
死没 (1968-04-12) 1968年4月12日(76歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州レイク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業
活動期間 1918年 – 1950年代後半
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レスター・メルローズLester Melrose1891年12月14日 - 1968年4月12日[1])は、アメリカ合衆国のタレント・スカウト、音楽プロデューサー、出版社経営者である。彼はシカゴ・ブルースの最初の音楽プロデューサーのひとりとして知られている。

メルローズは、1891年12月14日イリノイ州サムナーに生まれた[1]。父フランクリン、母もリーの間に生まれた6人の兄弟の2番目であり、出生名は、レスター・フランクリン・メルローズだった。両親は小さな農場を所有していた。1914年頃、彼はシカゴに移住し、シカゴ・ホワイトソックスのキャッチャーを志願したものの叶わず、食料品の販売員となった[2]

1918年(1922年とする情報源もあり)、彼は兄のウォルター、マーティー・ブルーム(出生名:マーティン・ブルメンタル、1893-1974)と共同で出版社兼音楽店の「メルローズ・ブラザーズ・ミュージック・カンパニー」をシカゴのサウスサイドに設立した[3][4]。1923年5月、ジェリー・ロール・モートンが来店したことにより彼と出会う。モートンはこの会社の主たるソングライター兼アレンジャーとなった。1923年末にはウォルター・メルローズが出版事業をダウンタウンに移転させ、レスターは音楽店を新たなパートナーと経営するようになった。

1925年、レスター・メルローズは店舗の彼の持ち分を売却し、フリーランスでタレント・スカウトと音楽プロデューサーを受け持つA&Rとなった。彼は、後に有名となる多くのブルース・アーティストのプロモーションを行ない、主にシカゴで彼らをレコーディングした。

彼は1930年代には、RCAビクターとその傘下のブルーバードを含む、複数のレコード・レーベルのために働いた[5]。彼はコロムビア・レコードとその傘下レーベル、オーケーでも仕事をしている[1]。彼がレコーディングし、世間に知らしめたアーティストには、キング・オリヴァービッグ・ビル・ブルーンジーサニー・ボーイ・ウィリアムソンIメンフィス・ミニールーズヴェルト・サイクスメンフィス・スリムロニー・ジョンソンビッグ・ジョー・ウィリアムズブッカ・ホワイト、ウォッシュボード・サム、チャンピオン・ジャック・デュプリー、ジャズ・ジラム、アーサー・クルーダップヴィクトリア・スピヴィーリロイ・カーといった面々がいた[1][6]

多くの点で、メルローズはシカゴ・ブルースの創設者と考えることができる。但し、彼はエレクトリックよりもアコースティックな演奏を好んでいたと言われている。彼が行なったレコーディングの多くはセッション・ミュージシャンで構成される小編成の演奏で、総じてサウンドは似通っていた[5]。メルローズのオーディションを受け却下されていたマディ・ウォーターズ[7]、彼の音楽を「スウィート・ジャズ」と称した。それは黒人ブルースとヴォードヴィル・スタイル、そして新しいスウィングのリズムを持つ音楽をミックスしたものであった[5]。メルローズの最大の功績は、フルバンドの編曲、アンサンブル演奏、リズム・セクションによるサウンドを確立したことであり、これは、都会化しつつあったレコードを購入する黒人聴衆にアピールし、1940年代後半のエレクトリック・ブルースやR&B、そしてロックンロールで主流となる小グループのサウンドの先駆けとなった。

メルローズのサウンドは第二次世界大戦前のシカゴのブルースを席巻していたが[6]、戦中戦後に南部のアフリカ系アメリカ人が大挙してシカゴに出てきたことによりメルローズの影響力は低下し、よりハードでディープなブルースが好まれるようになった。しかしながら、メルローズは1950年代を通じて活動を続けた。その後彼は引退しフロリダ州レイクに移住。そこで1968年4月12日、死去した。76歳であった[1]

メルローズは楽器を弾くことはできず、歌も歌えなかったが、彼は3000曲以上の楽曲(その多くはブルースであった)に関する著作権を持っていた。彼はアーティストにはレコーディング・セッションに関する支払いのみを行ない、楽曲の作曲者と演奏権保有者として、自らの名前をクレジットしていた。これは、ブルースに限らず当時は音楽業界の慣習として幅広く行なわれていたものであった。彼の名前はジャズ・ジラムが16歳のエレクトリック・ギタリスト、ジョージ・バーンズをフィーチャーしてレコーディングした「Reefer Head Woman」(後にエアロスミスがカバーしている)、メンフィス・ミニーの「Me And My Chauffeur Blues」(後にジェファーソン・エアプレーンがカバー)などの楽曲の作者としても記されている。彼の名前はまたエルヴィス・プレスリーがレコーディングしたアーサー・クルーダップの楽曲3曲にもクレジットされた。

メルローズは、1999年にブルースの殿堂入りを果たしている[1][8]

兄弟

脚注

外部リンク

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