レディバード (砲艦)
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レディバード号事件
1937年12月6日、いわゆるレディバード号事件とされるものではないが、日本軍の蕪湖空襲の際、既に同艦は、ジャーディン・マセソン社の商船2隻とともに日本軍機5機の爆撃を受けていた。英国旗を掲げていたが近くの蕪湖駅の誤爆だったともされた。英国人は同艦のバーロー海軍少佐と商船の一つの船長とその夫人の3人が負傷だったが、甲板下に収容されていた中国人難民が多数死傷、被災者は200名ともいわれる。商船2隻は直撃を受け、1隻は焼け、1隻は岸に寄せられた。[1]
1937年12月12日早朝、「敵の大型船5隻、敗残兵を満載して上流に向かって逃走中」という報を受け、野戦重砲兵第13連隊(橋本欣五郎大佐)は、朝霧の中、船団を射撃したが、その中に本艦が含まれていた。同日朝、英国の材木会社のタグボート清大号が英国領事や英国旗艦ビー号の艦長ホルト提督を乗せて蕪湖に到着、レディバード号に移ったが、その後、日本軍が清大号に機銃射撃を開始、さらにアジア石油会社の一群の船に砲撃を開始した[2]。その後、いったん収まったものの、やがて今度はレディバード号に砲撃を行い、4発が直撃、水兵1名が死亡、1名が重傷、ホルト提督を含む数名が軽傷を負い、ジャーディン・マセソンの綏和号にも命中した[2]。さらに、やってきたビー号にも砲撃が行われた。抗議のために上陸していたホルト提督の抗議を受けて終了した[2]。なお、その後、パナイ号事件が起こり、ビー号はパナイ号の姉妹艦オアフ号とともに事件遭難者の救助・収容に向かっている[2]。
12月13日未明、在中国英代理大使ホ-ウィは、彼が橋本欣五郎大佐に抗議したところ、自身のミスであったこと、同時に長江上のあらゆる船を砲撃するよう命じられていたことを認めたと、東京の英国大使館に報告している[2]。ただし、終戦直後、軍により資料が廃棄処分されたこともあって、このような攻撃命令の実際の存否は不明である。しかし、ホーウィの知る由もないこととして、このホーウィの報告電文の後、いよいよ13日朝の南京城市の総攻撃にあたって、橋本の属する第十軍の柳川司令官は、ちょうど、この攻撃命令を下敷きに長江上の砲撃命令を南京城内の敵殲滅命令に置き換えたような「丁集作命甲号外」を発令している[3]。また、翌13日、今度は日本海軍機が米国砲艦・タンカー計4隻を爆沈させるパナイ号事件が起こったが、これについてニューヨークタイムズの上海特派員であったハレット・アベンドは、橋本大佐が応援に来た海軍機にやはり同様に長江上の全ての艦船を攻撃するよう要請(原文では「命令」)したという話を中支那方面軍司令官の松井大将から聞いたことを、後の著作で述べている[2]。
松井石根大将の宣誓口述書によると「12月11日頃、中国軍は大小の船舶に乗じて揚子江を退却中にして、中には偽りに外国国旗を掲揚するもの少なからざりしにより、第10軍司令官・柳川中将は退却兵を乗せたる船舶はこれを砲撃すべしと命じたる…。橋本大佐は12日朝、濃霧中揚子江を航行中の数隻を認め、これを砲撃したるに、たまたまその中にレディバード号ありたりとのことなり」。

その後地中海に移され、バルディア砲撃やアブステンション作戦などに参加した。
1941年5月12日にトブルクで空襲にあい、ドイツ軍のJu 87急降下爆撃機の攻撃で損傷して着底したが、艦の上部は海面から出ていたため、その後も7.6cm砲やポンポン砲が対空砲として利用された。
