柳川平助

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柳川やながわ 平助へいすけ
渾名 覆面将軍
生誕 1879年10月2日
日本の旗 日本長崎県西彼杵郡村松村
死没 (1945-01-22) 1945年1月22日(65歳没)
大日本帝国の旗 日本 東京都世田谷区
所属組織  大日本帝国陸軍
皇道派
軍歴 1900年 - 1938年
最終階級 陸軍中将 
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
除隊後 興亜院初代総務長官
第42代司法大臣
国務大臣
大政翼賛会副総裁
墓所 多磨霊園
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柳川平助
Yanakawa Heisuke
所属政党 大政翼賛会
内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年12月21日[1] - 1941年7月18日[2]
内閣 第3次近衛内閣
在任期間 1941年7月18日[2] - 1941年10月18日[3]
その他の職歴
興亜院総務長官(初代)
(1938年12月16日[4] - 1940年12月21日[1]
大政翼賛会副総裁
(1941年3月28日 - 1941年10月22日
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柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年明治12年)10月2日 - 1945年昭和20年)1月22日)は、長崎県出身の日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将で、陸軍次官、興亜院初代総務長官、司法大臣国務大臣大政翼賛会副総裁を歴任した。皇道派の重鎮。

二・二六事件陰謀論の一説

1879年長崎県長崎市西彼杵郡村松村で真円真珠の養殖をしていた楠木(くすのき)家に生まれる。大村湾真珠株式会社。内海出身。旧姓楠木平助。後の大村市設立に兄と参画。

幼少時に佐賀県の柳川家の養子となる。父は楠木友太郎。実兄・楠木志能夫(しのぶ、1953年(昭和28年)死去)は、長崎県大村市の眼科医で地域医師会長。妻は天領長崎市唯一の武家屋敷深堀鍋島家の筆頭家老の深堀猪之助の娘、静子。静子の妹が菊子。平助の相婿が特攻隊菅原道大。陸軍次官時代には兄を交えた十人で家族写真を撮っている。

尋常西海小学校旧制・県立長崎中学校=長崎英語伝習所卒。日本初の官制英語学校。密入国で長崎に勾留のラナルド・マクドナルドが日本初の英語教育を施し、マシュー・ペリー来航時の通訳を務めた森山栄之助の出身。

1895年(明治28年)11月 - 1896年(明治29年)2月に広島の代議士八田謹二郎と小泉甚右衛門と手紙交換。

1900年(明治33年)に陸軍士官学校(12期)を卒業。1904年(明治37年)- 1905年(明治38年)中尉日露戦争旅順戦に従軍。1912年(大正元年)に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官。

1918年(大正7年)に駐中国武官として、北京陸軍大学校に教官として赴任。1920年(大正9年)8月19日参謀本部。イギリスフランスにてヴェルサイユ講和条約交渉の日本代表団の外交武官として派遣。三年間の国際連盟駐在中は、第一次世界大戦で活躍した連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥から兵法を修習。元帥とは10月2日生、カトリック、厳格な反ドイツという共通点がある。イギリス騎兵隊フランス騎兵隊から学ぶ。 ほかにフランスにてトリアノン条約におけるハンガリーの領土割譲を交渉する。チェコスロヴァキア共和国セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(のちのユーゴスラビア王国)、ルーマニア王国に割譲した。

1922年(大正11年)8月15日に陸軍大佐。1923年(大正12年)1月1日宇垣一成に絵葉書。1923年(大正12年)に騎兵第12連隊隊長。1925年(大正14年)5月1日に参謀本部演習課長。この際には、当時の部隊の旅先旅館にて、部下らが羽目を外す中、阿南惟幾は寛容なカドが立たない対応をしたのに対して、カトリックの影響の強かった長崎出身の為か、派手な部下を叱責したと対比される。

1927年(昭和2年)4月1日に陸軍少将。騎兵第1旅団長となり第一次山東出兵1929年(昭和4年)8月1日に騎兵学校長。1930年(昭和5年)に騎兵総監1931年(昭和6年)12月12日に陸軍中将

1932年(昭和7年)8月8日に犬養毅内閣荒木貞夫陸軍大臣の下で陸軍次官に就任。真崎甚三郎らと皇道派の重鎮を担う。陸軍次官として国産大衆自動車工業の確立に関わる。

1933年(昭和8年)6月に省部会議「満州事変後の大陸国防の方針討議」を開催。荒木陸相、柳川次官、山岡軍務局長山下軍事課長、真崎参謀次長梅津総務部長古荘第一部長永田第二部長小畑第三部長鈴木作戦課長が出席。永田部長の「北支への南進一撃講和論」と皇道派の「戦線不拡大」と意見が割れる。この頃から統制派が皇道派の追放と対英米開戦を計画。

またこの頃、柳川らは外務省欧米局嘱託で英仏独に留学した反国民社会主義昭和研究会佐々弘雄から、ヴァイマル共和国ハイパーインフレの惨状を聞き、軍事・経済の双方で敗北状態のドイツ式の問題点を危険視。プロイセンのカール・マルクスによるマルクス統制経済的な現代貨幣理論による通貨発行の危険性を知る。 慶應義塾大学原理日本社三井甲之らの反マルクス経済学者から意見参考。 同年、佐賀の同郷のRICOH創始者の市村清から理研を辞めて判事か弁護士に転職するか相談を受け、仏教の釈迦を引合いに、宗教すら商業性がある旨を説く。 陸軍大臣荒木貞夫が顧問、陸軍次官の柳川平助が理事長となり、陸海軍将校などの軍刀整備の他に伝統技法の踏襲を目的に「日本刀鍛錬会」を組織。鍛錬所を靖國神社の境内に開設。ここで作られた刀は「靖國刀」、従事した刀工は「靖國刀匠」と呼ばれ、終戦まで10年余りの期間に約8100点が制作される。 この鍛錬所は、現在も靖國神社の境内に残っており、建物内部は改装され茶室として使用されている。

1934年(昭和9年)4月29日に勲一等旭日大綬章。8月1日第一師団長。荒木貞夫が肺炎で陸相を退く。 1935年(昭和10年)に斎藤実内閣下にて林銑十郎陸軍大臣の陸軍次官。教育総監の真崎甚三郎が、閑院宮載仁参謀総長、参議官渡辺錠太郎の後押しで林銑十郎陸相に罷免される。 1935年(昭和10年)2月日米のフォード、日産の提携交渉打ち切りを当時の横濱市長に勧告。

1935年(昭和10年)12月2日に台湾軍司令官に転任。 1936年(昭和11年)8月に宜蘭公園の「忠魂塔」記念碑が調印。

1936年(昭和11)の二・二六事件の後、同年9月20日予備役編入。それは参謀本部庶務課長代理、富永恭次中佐によって戦時召集の際には厚遇するという約束で自ら予備役編入願いを出してのものであった[5]。同年12月3日、同じく二・二六事件を契機に予備役入りした建川美次とともに参内し、天皇に拝謁する機会を賜る[6]

陸軍の主要役職から皇道派の撤退が相次いだ為に北閥派の青年士官達が危機感と不満を高めていた。これにより昭和維新を何者かが唆したとする説。

青年士官らの一部は陰謀を感じ、昭和維新の決行に躊躇した。内務省の無線通信記録に、決起日の青年士官達の通信記録が保存されており、決起直後に既に内務省は事態を把握していた可能性がある。

当時の光行次郎検事総長は直後に解任されるのだが、柳川平助と同郷の親交があり、事態は想定されるものだと見解を示していた。茂見義勝著『検事の目』(近藤書店、一九五〇)

また、士官らの動機として、帝󠄁國空軍設立が挙げられる。昭和維新の第一師団の士官らは日本の陸海合同の空軍創設を見越していた。ところが、出征経験から現場の意見具申を受けていた皇道派、特に教育総監の真崎と第一師団長の柳川平助を外されると陸海の教育体制の統合、改組と空軍新設が不可能となることを危惧したとされる説。柳川の国際連盟、欧州駐在経験より、第一次世界大戦後の次世代戦では騎兵隊のみならず、航空兵器が主力となることを想定し、意見を収集していた。

事実、各国がヴェルサイユ条約およびワシントン海軍軍縮条約後に、航空戦力の開発を競争・伸長していた。 後に制空権の喪失が日本の敗戦に繋がっているのでこの時の青年士官らの予見は正しく的中したのである。

現に柳川の妻「深堀静子」の生家深堀鍋島家の相婿が後に航空司令官となる菅原道大であり、1937年に石原莞爾らと「航空重視」の上申書を提出するも皇道派なき参謀本部はこれを保留している。

また、柳川平助の長女、文子の婿(柴弘人)は、欧州駐在武官を務め、大東亜戦争開始前後に周回遅れだった日本の精密機械技術を研鑽する為に技術収集に努める。同戦争中にイタリア製の航空用精密機械をドイツより優先して供給を受ける工作を行った。戦末に同国から帰国した後は風船爆弾ケ号作戦=[丸ケ作戦](クラスター熱線爆弾)に、学徒動員のソニー共同創業組の井深大盛田昭夫と参画している。戦後、上記の機密技術を米国に提出。戦後、日本真空時計に量産型電池時計を店頭で購入できる販路を東京芝浦電気へ提案した。これは日本の電池時計を世界市場へ押し上げることとなった。

次女(和子)の婿は武雄勝紀

三女(淑子)の婿は(弓野勲)で陸軍軍医少佐。1941年にオランダ人ヴァン・デ・ヴェルデ著の完全なる結婚を翻訳出版。結婚生活と男女関係を綴る、恋愛版ターヘルアナトミア。同年、陸軍航空技術学校・航空総監部より、エス・ルフハア・シュトルクホルト著の航空医学入門を翻訳出版。他に前立腺細胞肉腫植物による紫外線と皮膚反応の関係。 また、原爆投下後の広島市で被爆者の放射線医学的調査を行い、米国に提供した。アメリカの飛翔体と宇宙服開発の際に、放射線が作用する人体への影響参考資料とされた。

上記より、陸海軍双方に軍人を輩出していた深堀鍋島家の閨閥集団は航空自衛隊設立への関与が大きい。

このことは、作家で戦艦武蔵で有名な吉村昭が細かく調査していた。

柳川平助の長男の柳川清成の妻が山口県周防の男爵山本信行の孫娘(第8版 [昭和3(1928)年7月])

日中戦争下

1937年(昭和12年)に第二次上海事変国民革命軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、召集された柳川が第十軍司令官に補された。柳川は杭州湾上陸作戦を成功させ、国民革命軍の退路を脅かし、朝香宮鳩彦松井石根らと上海攻略に貢献する。

杭州湾上陸作戦は、第四艦隊(司令長官豊田副武中将)護衛のもとに約百隻からなる大船団に分乗して、五島列島沖を出発し、11月5日杭州湾に上陸した。柳川の地元の長崎は元寇倭寇時代から上海香港との交易海運経路が存在した。11月6日「日軍百万杭州湾上陸」の広告気球が上海の空高くにあがった。実数十万程度の軍十倍の十万に「ハッタリ」をかけ、国民党軍が一部遁走したとされる。

松井大将は10月13日をもって「中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官」の辞令を拝受し、第10軍の作戦指導にもあたることになった。12月4日からは朝香宮中将が上海派遣軍司令官に親補されたため、松井大将は兼任を解かれる。

1937年(昭和12年)12月に更に参謀本部上海派遣軍の意向を無視し独断で国民革命軍を追撃、南京攻略戦へと発展させ陥落に追い込む。

真崎甚三郎の第一次上海事変後のJpmorgan社、英米の警告を受け即時撤退を以てしても、終戦に至らなかった為に、南京陥落を以て、日中事変の終結を目指していたが、終戦、和平には至らなかった。 そもそも当時の日本の経済力では、中国大陸に大展開した日本軍を維持し続けることに無理があった。南京事件直前には多くの兵隊が終戦を喜んだ逸話がある[要出典]

国民革命軍の資金源に、親独=満州派岸信介影佐禎昭里見甫らによる満州の阿片があった。三井物産より、現在の電通である昭和通商+満州国通信社から紅幇青幇等のチャイナマフィア経由で売り捌いた利益を国民党に供与する見返りにドイツ兵器を購入させていたため、国民党の抗戦意欲が削がれなかったとする。 フォッシュ元帥を敬愛していた柳川からすると、第一次世界大戦の敵国ドイツと岸信介や昭和通商らが強い結び付きを持ち、双方の武器を持った友好勢力と潰しあいをさせられた形になる。

また、後述より柳川の厭戦発言の存在がある。そもそも第十軍が増援軍であり、盧溝橋事変第二次上海事変の原因ではない。226事件で退役させられたところを統制派将校不足の都合で召喚されるといった「尻拭い」であり、積極的参戦とは言い難い。寧ろこの時の批判としては第10軍の兵隊の多くが退役した三十代で、子育て中の父親を多数徴兵した部分にある。 国内に多くの母子家庭を生む結果となり、日中双方に多くの欠点のある一件となった。

この様な日華事変の泥沼化、敗北の想定された尻拭い的な上級将校の派兵は以降、皇道派山下奉文阿南惟幾らも同じ轍を踏まされる。

そもそも、敵軍の蔣介石が柳川平助の陸軍次官時代の親日英米反共で友好関係にあった。

日本側代表の犬養毅頭山満らは1928年-1929年に南京を訪れ、辛亥革命で支援していた国民党の孫文慰霊式に参列し、孫文の腹心の蔣介石と会談していた。

満州国を不承認とした内閣として「犬養毅首相ー荒木貞夫陸相ー柳川平助次官」の線があり、不拡大方針の皇道派が大陸国防方針を策定した。

しかし、真崎と柳川の上海や南京戦の矛盾が発生してしまうこととなった。日中双方の人的経済的損失からみると、日華事変で和平をすべき最後のターニングポイントとなる。

全宗教統合の国霊社創建計画などからも、頭山満ー孫文ー蔣介石との友好線を隠れ切支丹の地、長崎出身の柳川が崩す事に利益がない。相婿の菅原道大も島原出身であり、佐賀藩の多くは靖国神社に祀られていない。

柳川ら皇道派は、親中英米派であり、東インド会社グラバー商会ジャーディン・マセソン商会といった、在上海香港の英仏米蘭系企業との関係があった。

この拠点を攻撃してしまうと、日英仏米のワシントン海軍軍縮条約の領土相互尊重義務の抵触と世界恐慌によって締め出された経済復興が更に遠退き、長崎そのものが取り引き先から外される危険があった。現にABCD包囲網が敷かれ直接の経済制裁を受ける。

1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除。 南京攻略戦後の虐殺を抑えられずシーメンス中国支社所属のドイツ人ジョン・ラーベからの批判があった為のほか、国民党政権がシーメンスから軍事兵器を購入していたのがあったとされる。

1938年12月16日に設立興亜院の初代総務長官に就任。二年後の12月21日まで務める。

同年末、妻の深堀静子の遠縁の大越兼二大佐関東軍情報担当参謀ハルビン特務機関にてロシア軍との衝突を予見し、警告をするも無視される一件があった。 峰幸松の子息がそれぞれ大越兼二と板垣征四郎の妻で、柳川と同じ出身校で同郷の峰幸松と興亜院の時の関係で両者と家族ぐるみの交友があった。

1939年汪兆銘と会談。

1940年6月24日 東京商科大学一橋講堂にて東亜経済研究所開設記念講演を行う。高瀬荘太郎、岸信介、児玉謙次らも講演者。

1940年米内光政内閣にて厚生大臣の吉田茂と共に北支関係綴の復命書や漢方資源調査報告書を受託。天津市場での原料として日本への輸入、日本の製薬製品を中国への輸出する体制の計画を認可した。

1940年12月21日に興亜院総務長官を退き、第2次近衛内閣司法大臣就任。平沼騏一郎財閥の後援により風見章から司法相を引継ぎ就任。警視庁を率いる。戦時下唯一且つ非検事司法次官出身の司法大臣に加え、初代司法卿の江藤新平以来となる同郷出身の司法大臣である。

国防保安法の制定。収賄罪公正証書原本不実記載罪失火罪の厳罰化。贈賄罪談合罪業務上失火罪у競売・入札妨害罪の新設。借家法改正等を行った。

国防保安法の制定は1937年時点で既に米国が、日本の諜報機関以上に、水面下の活動を把握していた事や、各方面にて非公式組織が国内諜報網を構築しており、情報操作が常態化していた事を対処である。また「国民にややもすれば不安感を与えるようなおそれがあることは、お説のとおり」と言論統制への懸念も理解していた。

公正証書原本不実記載罪の厳罰化は登記変更によって実質の備わらぬ会社が、軍需会社その他将来有望な会社を装い不法利益を図る行為を抑止する目的となる。

前提背景として当時、大東亜戦争の一因となった「石油と自動車工業の日米の提携、合弁など」において柳川が陸軍次官であった1935年、方針は不明だが整備局は賛成で軍務局長武藤章は日満自動車との繋がりを重視からフォード日産の連携を反対とし、柳川が当時の横浜市長にフォードへの用地提供中断勧告を出した。また、対立派閥の岸信介が商工省工務局長などを務め、柳川の軍界からの排除以降も日米双方の内部紛争に不調を来し続けていた。 

こういった日米自動車産業の衝突要因として、当時、岸信介と東條英機ら統制派の濃厚な贈収賄と談合の疑惑が原因として考えられていた。後年、極東裁判や岸信介の政権獲得時の援助団体などを経て発覚していくが、阿片など満州利権から得た賄賂の資金を岸信介が当時は非合法の経団連からの企業献金を受けて逆に政財界各所へお金を融通して政権組閣の支持者を集めていた。現在でいう選挙買収に近く、それらが陸軍省と政権内部にて争いを生んでおり、皇道派が目指していた日華事変の和平講和や対米開戦回避の妨害工作の原資となっていた。妨害理由として統制派の権力維持に満州利権からの各所への賄賂が不可欠であった為、満州の日英米共同開発やハルノートの提案は、統制派は決してのむ事が出来なかった。これらを受けて大政翼賛会は財界から「赤」と判断され、住友銀行頭取などから融資をしてはならないと銀行側へ通達があった。柳川の司法大臣と大政翼賛会副総裁の兼任は「新経済体制」に関わった者を更迭するため、財界からの支援を受けたものであった。

平沼騏一郎や小磯国昭神道研究会を設立。

1941年2月15日に私有財産制度否認思想取り締り方針を衆議院で明示。

1941年3月28日-10月22日に大政翼賛会の初代副総裁。

1941年3月 外相の松岡洋右スターリン日ソ中立条約を締結したことに不快感を示す。

1941年4月17日 総力戦と少年保護を無線放送

1941年5月 治安維持法の全面改正

1941年7月18日 第3次近衛内閣国務大臣に転任。

1941年冬以降、大東亜戦争中、反東条勢力として倒閣運動に参画。度々、真崎甚三郎らと会合。第一次上海事変で英米へ配慮し即時撤退を行った真崎の首班指名を計画。

(纐纈厚「『聖断』虚構と昭和天皇」より)

1942年(昭和17年) 2月11日 ‐ 大村町三浦村鈴田村萱瀬村福重村松原村が合併し市制施行。 大村市が発足。設立に兄の楠木志能夫ら各代表と参画

1942年4月13日、大村市会で市長推薦を受けるも辞退。

1942年10月16日 米英撃滅大東亜建設促進講演を清話会にて平出英夫飯田清三野口米次郎本間雅晴らと

1943年 理研感光紙創設の市村清との会話にてフランクリン・ルーズベルトの「欠点を恐るるは小人の常なり」を引用

1943年に高松宮伏見宮賀陽宮吉田茂佐々弘雄海軍懇談会ら親英米勢力と共に東條内閣倒閣運動と終戦工作を試みる。

柳川平助は高松宮の御用掛に就任した細川護貞に対して「東條内閣に対する批判ありて、最も望ましきは東條其人の悟りなれど、これは望みても得べからざるものにして現今の方法としては (い)議会に於ける批判 (ろ)枢密院本会議に於ける発言、及び単独上奏 (は)重臣会議、重臣と云ふものの定義なり法制上地位の問題なるも、兎も角も重臣より御上に申し上ぐる方法 (に)宮殿下を通じて申し上ぐる方法。臣下としては希望すべきには非ざるも、やむを得ざればかる方法としては致し方なし (ほ)御上より直接、東條首相に対し、御下問あらせらることにて、是は最も望ましき事ながら、臣下より申し出づべき事柄に非ず」

これらの中から細川護貞は(に)を選択する。この細川護貞鍋島直正の曾孫で鍋島家の閨閥に属す。

帝国議会や枢密院本会議にて東条批判の論陣を張る一方、和平派の宮家から東條退陣の必要性を昭和天皇に上奏する方法を模索。重臣会議の開催となり、実現する。

宮内省の木戸幸一や統制派の岸信介ら東條英機の重臣それぞれに皇道派と宮家、岡田啓介海軍大将ら、各方面から圧力をかけ、また、石原莞爾らによる暗殺計画の露呈等もあり、東條退陣へと結びつける。

元々、平沼系の国粋主義鎖国派であったことにより、朝鮮併合や満州國樹立に反対の姿勢に加えアーリア人優勢論で国民社会主義者のアルフレート・ローゼンベルクに反対の姿勢で「悪化が良貨を駆逐する」と表現し、始皇帝の様な反対学者を坑にする、焚書坑儒を危惧していた。しかし長年、日中が度々侵略を行った朝鮮に対してはヒトラーを引用して朝鮮人の日本からの隔離、独立も主張していた。

これは出身地が長崎市であることや妻の深堀静子が江藤新平らを匿った潜伏地であることなどから長らく地域的に弾圧されてきた側であったことからの危惧といえる。

大政翼賛会副総裁当時、頭山満今泉定助大島健一永田秀次郎各東京市長経験者らと仏教基督教も含めた霊地として宇治山田の伊勢大廟内宮、来宮神社国霊社という靖国神社の多宗教版の建立を計画し、地鎮祭まで完了していた。

朝鮮と満州を失えないとした帝国日本の姿勢は長州出身や統制派、満州派政財界によるところが大きい。

1944年、吉田茂高松宮宣仁佐々弘雄が東条英機の後任首班指名に柳川を推するも二度の長州征伐に参戦していた佐賀藩であることや木戸幸一が拒んだためか不調に終わる。

1944年3月29日に「正午、佐々友房先生の遺品が佐々弘雄氏の手に帰したるによりとの披露の宴に出席。泊老人、柳川将軍等十余人会食」 『細川日記』より 佐々弘雄子息の佐々淳行が、後に初代内閣官房安全保障室長として、ロシア北朝鮮の監視をする土台であった。

1945年1月22日、世田谷にて狭心症から心臓発作で病死。 死去にあたり祭資の下賜を受けた。また、葬送にあたり勅使として侍従が派遣され、幣帛の下賜を受けた[7]

柳川の死後、同年4月に親英米ヨハンセングループに対する東條英機らの報復か、吉田茂が逮捕されている。

※同年後に平助の次男の柳川清宇が、志願先のビルマにて戦死。清宇はビルマにて部下に敗戦が予想される事を発言。これは同皇道派の山下奉文も予想していた。父・平助を陸相に据えることで終戦時の軍部の制御と、近衛上奏文から東南アジアからの撤兵、また戦争責任の引責ができると考えていた。淸宇が荒木、林両陸相時代に平助の副官を務めた牛島満陸軍大将の娘との縁談が決まっていたとされるが、死を覚悟したビルマ志願であった為、直前に縁談を辞退したとされる。

また、清宇の母方には「海軍兵学校(69期)卒で特攻隊所属の深堀直治がおり、特攻の戦死者は47名中、正規士官は深堀直治中佐だけで大多数は予科練と予備学生だった。

双方正規士官でありながらも、罪のない一般国民のみを犠牲戦争にせず志願し、最前線で散り果てた。

また、柳川平助との関係性は不明ながらも、妻の静子が深堀鍋島家の中屋敷出身として深堀鍋島家本藩にて「鍋島姓」を持つ31代の血筋の鍋島茂明海軍中将は、嶋田繁太郎の下で横須賀鎮守府機関長や佐世保鎮守府機関長、大本営部員、連合艦隊機関長を務めた。

また、鍋島茂明の祖父で29代の鍋島茂精長州征討に参加、ジャーディン・マセソン商会グラバー商会と日英共同の軍艦島石炭開発を行い、上海や香港へ輸出して明治新政府の財政へ寄与していた。

こういった視点から見ると国際的な軍隊定義上は陸海空の機能を併せ持つ鍋島家の閨閥は、機能的には海兵隊といった存在に近い。

※1939年に長男の柳川清成陸軍少佐が陸軍戸山学校軍楽隊にて騎兵の歌の作詞

覆面将軍

1937年の南京入城式において、松井石根中支那方面軍司令官や朝香宮上海派遣軍司令官の名や写真は新聞・雑誌等に出ても、柳川の名は徹底して記載されず[8][9]、写真は極力顔が判らないもの[10]や柳川を消して[11][12]掲載された。このため、世間では、この人物のことを「覆面将軍」と呼んだ[13](なお当時、正体不明の軍指揮官を「覆面将軍」と俗に呼ぶ言い方も既にみられ[14]、この語をペンネームとして使う政治評論家も以前から居た[15]。)。この「覆面将軍」が柳川のことであることを記した雑誌『「覆面将軍」柳川平助は何をした?』は発禁処分を受けた[16]。しかし、これが柳川のことであることはじきに広く知られわたり、意味を失うこととなった[17]

菅原裕は、これは、皇道派であった柳川は二・二六事件の結果、軍から排除され予備役にいったん編入されたが、支那事変により柳川を軍に復帰させるにあたって、陸軍主流の統制派が占める軍中央が、柳川の名声が高まることを恐れ、凱旋後も柳川の名や顔写真を新聞雑誌に掲載することを一切差し止めた為としている[18]。(一説には、二・二六事件を起こしたことで皇道派を嫌った当時の昭和天皇の意向が働いたともされる。)

1997年代、アイリス・チャンが、この逸話を著書『ザ・レイプ・オブ・南京』で紹介したところ、かえって、この話を否定する主張が一部で起きた。東中野修道・藤岡信勝共著の『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』は、柳川の南京入城時の写真は読売新聞社編『支那事変写真帖』(たまたま同名である書籍が東京朝日新聞発行所編、東光社編など各種あるので注意)などに見ることが出来るとして、「チャンは、いったいどこで何を見て、このようなことを書いたのだろうか」とした[19]。これについて、巫召鴻は、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の原註には、東中野も認めている通りに菅原の著書を引用元としてページまで記してあり、内容もチャンの書いていた通りなので「菅原の記述が正しいかどうかは別として、指定文献のどこを見て疑問をもったのだろうか」と一笑に付している[20]

人物

事件後、1936年3月に平沼騏一郎が西園寺公望に代わり枢密院議長を務めるも、四年後には元老の役割を内大臣として木戸幸一が引継ぎ、事実上の関白に近い統帥権を保持していた。

その木戸幸一が戦線拡大派の統制派の東条英機らを陸相首相といった優遇人事を行い、皇道派を要職から外した。陸軍の兵力資産と対欧米関係から南進への戦線拡大が好ましくない状況があり、平沼騏一郎を以てして西園寺と木戸らを昭和天皇から引き剥がす事が実現せず。戦線拡大派の手中の昭和天皇を退位させる他になかったとされる。荒木貞夫が極東裁判にて一部退位画策を認めている。

近衛内閣にて松岡洋右がスターリンと腕を組む写真を見て共産主義勢力との癒着に不愉快を示していた。

また、終戦末期には荒木貞夫が度々柳川の家を訪れており「柳川はいないか」と相談に訪れていた。

長崎市となった旧大村藩領出身から大村市の設立に携わり、旧制大村中学は日露戦争の講和をし、シャーマン反トラスト法の制定を担ったセオドアルーズベルトの孫娘が訪問した。その関係からかセオドアルーズベルトを敬愛していた。

省部時代には社会局の人間が柳川との面会を希望したが「社会局というからには社会主義者の手先に違いない、会わない」と発言している。

柳川を後援していた反独姿勢の平沼騏一郎と同様に親ソの陸軍統制派に近い集まりを危険視していた。これはパリ講和会議以来、普仏戦争第一次世界大戦で活躍した連合軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥との盟友関係があったことや、社会主義経済に感化されて5ヵ年計画を持ち込んだ陸軍統制派へ強く反発していたことによる。柳川は、欧州滞在時、実物資源の不足による著しい供給制約下での通貨の過剰供給により、ハイパーインフレーションを引き起こしていた当時のナチス・ドイツソビエト・ロシア統制経済に基づく経済政策の失敗を間近に見ており、実体経済の成長の伴わない総需要拡大政策には反対であった。

第二次上海事変~南京事変においては侵攻時に中国との戦争を厭戦する発言をしている。

他に第一次上海事変にて皇道派の真崎甚三郎が、上海モルガンより英米からの対日感情の深刻な悪化を警告されていた事から対米開戦起因となり得る事への厭戦発言だと考えられる。

理化学研究所派生の理研感光紙創始者の市村清の同郷で退職を思い止まらせた相談相手の一人であった。

柳川文書の発見

栄典

脚注

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