レニー・パウエル

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名前 レニー・パウエル
生年月日 1946年5月4日
引退 1980年
レニー・パウエル
2018年撮影
基本情報
名前 レニー・パウエル
生年月日 1946年5月4日
経歴
大学 オハイオ大学
オハイオ州立大学
引退 1980年
以前のツアー LPGA ツアー
プロ勝利数 1
LPGAメジャー選手権最高成績
女子ウェスタン T33: 1967
タイトルホルダーズ DNP
全米女子プロ T20: 1969, 1976
全米女子OP T33: 1966
デュモーリエ 78th: 1980
受賞
National Afro-American
Golfers Hall of Fame
1986年
National Black Golf
Hall of Fame
2006年
アフリカン
アメリカンゴルファー殿堂
2007年
PGA オブアメリカ殿堂 2017年
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レニー・パウエルRenee Powell、1946年5月4日生まれ)は米国人女子プロゴルファーで、LPGAツアーをベースにプレーした。現在はオハイオ州 イーストカントンで家族が経営するクリアビューゴルフクラブのヘッドプロをしている[1]。LPGA ツアーでプレーした史上二人目の黒人女性である[2]

ゴルフコースを経営するビル・パウエル (Bill Powell) の娘としてオハイオで育ち、幼少のころにゴルフを始めた。10代でいくつかのユースアマチュア大会に優勝し、オハイオ大学オハイオ州立大学の女子ゴルフチームのキャプテンも務めた。1967年にプロ転向、70年代にはキャリアアップのため英国に渡り、英国PGAに所属した。1977年には男子のゴルフトーナメントに出場した初めての女性となった。1980年に引退、テレビのコメンテーターとなり、1995年にはクリアビューゴルフクラブのヘッドプロに就任した。

オハイオ州ゴルフ殿堂のメンバーであり、シグマガンマロー ソロリティーのメンバーである。2017年にPGAオブアメリカの殿堂メンバーにも選ばれた。

オハイオ州イーストカントンで生まれる[3]。3歳でゴルフを始めた[4]。父親ビル・パウエルは米国内において自分でゴルフ場を建設し、これを経営した初めての黒人であり[5][6]、レニーのために子供用のクラブを自作し、打ち方も教えた[7]。幼年期には特筆すべき出来事はさほどなく、普通の子供同様アーチェリー、バレエ、バスケットボールなどの様々なスポーツで遊んでいた。トラクターを運転して父親のゴルフコースのメンテナンスも手伝った。

12歳の時初めてアマチュアのゴルフ大会に出場し、クラス優勝した[8]。3年後の1960年には30以上のユース大会に優勝していた。1961年までに優勝数は50を超え、毎日父親のゴルフ場でプレーしていた。グレートレイクスバンタムゴルフトーナメント (Great Lakes Bantam Golf Tournament)、コロンビアーナ郡オープン (Columbiana County Open)、クリアビューゴルフクラブジュニア (Clearview Golf Club junior)、シックススシティーレディース(Sixth City Ladies、3回)、タイヤタウンオープンレディース(Tiretown Open Ladies、2回)、ビークルシティーターニー (Vehicle City tourney)、そしてミッドウェストディストリクトジュニア(Midwest District Junior、3連続)などに優勝した[9]。アクロンビーコンジャーナル (Akron Beacon Journal) は彼女を「バンタムゴルフショーの女王 (Queen of the Bantam Golf Show)」と呼んだ[10]。1962年には全米女子ジュニア選手権に黒人として初めて出場した[11]。この大会のマッチプレー1回戦で優勝候補のアン・ベーカースを破る番狂わせを演じた[12]。1963年、アクロンタイヤタウンオープン (Akron Tire Town open) で3回目の優勝を果たし[13]、1963年の全米女子ジュニアに再び出場した[14]。1964年夏、ライルシボレー女子ゴルフトーナメント (Lyle Chevrolet women's golf tournament) というサドンデス方式の大会で優勝[15]。1964年のUGA(United Golf Association、黒人のゴルフ統括団体)ナショナルオープンの優勝候補とみなされ、実際ローアマチュアタイトルを獲得した[16][17]

1964年にセントラルカトリックハイスクール (Central Catholic High School) を卒業し、オハイオ大学 (Ohio University, OU) に入学、その後オハイオ州立大学 (Ohio State University, OSU)に編入した[5][18]。OU では言語療法と聴覚療法を専攻したが、OSU では社会学に変えた[19]。いずれの大学でも女子ゴルフ部のキャプテンを務め、OSU では全米で名の通った大学ゴルフ部のなかでは黒人初のキャプテンとして皆を統率した[7]。彼女がオハイオ州ゴルフ協会のトーナメントに出場したい意向を示した際、OSU は彼女を全面的にバックアップし、パウエルがプレーすることを許されなかったら OSU はゴルフ協会を脱退する、と声明発表まで行った[20]

プロでの成績

クリアビューゴルフクラブのグリーン

通算で 250 以上のプロゴルフ大会に出場した[21]。1967年、LPGA にその史上2人目の黒人として加入した[22][7]。LPGAに加入した初年は、黒人がゴルフをするのを観ることを好まない人々から「殺す」といった脅迫をしばしば受けた。大会公認の指定ホテルであるにもかかわらず彼女の宿泊を拒否するホテルも少なからずあった。カナダ人ゴルファーで友人のサンドラ・ポスト(白人)とともにツアーを回っていた際、パウエルの部屋を確保するのに二人で度々駆けずり回ったという[23]。時にはレストランへの入店を断られたこともあった。パウエルはそんな時に、「言いたくはないけど、あなたがカナダ人だから断られたのよ」とジョークを言ったという。ゴルフの収入だけでは生活できなかったのでウィルソンスポーツグッズの店舗でゴルフクリニックのインストラクターをしたり、有償のエキジビションプレーをした。両親も金銭的支援を惜しまなかった。1969年、LPGAは、その加入メンバーは全員が一体不可分(特定人種だけが差別されることはない)のものであるとし、このことを大会実施予定の町すべてに事前にアナウンスを行って問題発生を回避する動きを示した[18]

パウエルは1973年、オーストラリアクイーンズランド州サーファーズパラダイスで開催されたケリースプリングフィールドトーナメント (Kelly-Springfield Tournament) で優勝した[24]。彼女の最終ラウンドのスコア67はコースレコードだった[6]。彼女はアフリカを25回訪れ、滞在期間中に各国の国家元首やその他の人々にゴルフを教えてまわった。彼女は1971年にUSO(米国慰問協会)による慰問巡回に参加、ベトナム戦争が最も激しかった時期の米兵慰問も行った[5]。彼女はパティー・バーグとも友人関係にあり、時に励まされたり、またゴルフクリニックの開催方法についてアドバイスを受けたりもした[8]

1970年代、パウエルはキャリアアップのため英国に渡り1975年にはセントアンドリュースのオールドコースで初めてプレーした[25]。短期間だがシルバーミアゴルフクラブ (Silvermere Golf Club) でヘッドプロを務めたが、これは女性としては初めて役職だった。その後、英国PGAに所属し、1977年にはサリーPGA選手権 (Surrey PGA Championship)  という男子大会に出場した。これは英国において男子大会に女性が出場する初めての出来事となった[5]ハロッズ百貨店向けにゴルフグッズのデザインも行った。当時ただ一人の著名な黒人女性ゴルファーだったこともあり、日ごろは「孤高の人」を演じていたという[8]

1980年に LPGA から引退[3]。250以上のLPGAツアーの大会に出場した[23]。引退後はABCやCBSのテレビ解説者になった[22]。1995年には、父親が人種的・社会的差別のないクラブとして1948年に設立した[5]クリアビューゴルフクラブのヘッドプロに就任した。クリアビューにおけるパウエルのマネージャーとしての働きをLPGAも認識し、クリアビューを ”75 Girls Golf Club” の一つとして認定した[26]。女性退役軍人向けの ”Clearview HOPE” という名のリハビリテーションプログラムも運営している[21]。これは北オハイオの退役軍人の無料ゴルフプログラムで、レクリエーションおよびセラピーを目的としたものである[6]

2019年、パウエルはPGA オブアメリカの無任所役員に選出された[27]

受賞

脚注

外部リンク

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