レフカ
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レフカ
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街の中心部にあるオレンジのモニュメント | |
| 座標:北緯35度6分48秒 東経32度51分4秒 / 北緯35.11333度 東経32.85111度座標: 北緯35度6分48秒 東経32度51分4秒 / 北緯35.11333度 東経32.85111度 | |
| 国 (法規上) |
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| • 地区 | ニコシア地区 |
| 国 (事実上) |
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| • 地区 | レフケ地区 |
| 政府 | |
| • 市長 | アズィズ・カヤ[2] (共和トルコ党) |
| 人口 (2011)[3] | |
| • 合計 | 3,009人 |
| • 自治体 | 11,091人 |
| 等時帯 | UTC+2 (EET) |
| • 夏時間 | UTC+3 (EEST) |
| ウェブサイト | Lefka Turkish Municipality |
レフカ (ギリシャ語: Λεύκα)またはレフケ (トルコ語: Lefke)は、キプロス北部のモルフォウ湾に面した都市。事実上北キプロス・トルコ共和国の支配下にある。2011年の人口は3,009人。北キプロスの行政区画レフケ地区(2016年にギュゼルユルト地区内の小地区から昇格独立)の中心都市である[4]。
柑橘類と銅鉱山の街として知られている。歴史上、ヴェネツィア共和国がキプロス島を支配していた時代のレフカはイタリア系のカトリック教徒の街であった。その後オスマン帝国の時代に、トルコ人が入植した。
レフカに初めて人類が現れたのは新石器時代である。ある仮説によれば、紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王子レフコスが街を建設し、名祖となったという。このレフコスはニコシアも建設し、当時はレフコシアと呼んでいたのだともいう。また別の説によれば、ギリシア語でポプラを意味する「レフカ」(Lefka)という名の少女が病を患い、この町に山から下りてくる新鮮な空気を吸うためやって来たのだという。この伝説によれば、少女はその後この町で長い余生をまっとうして亡くなり、彼女を記念して町の名をレフカとしたのだという[5]。
レフカは古くから銅鉱山の街として栄えた。町の周辺で、青銅器時代に採掘されたとみられる銅が見つかっている。銅の生産はフェニキア人や古代ローマの支配下にはいっても続いたが、ローマ帝国期の150年ごろに閉山した。街周辺では、ヘレニズム期の紀元前310年からローマ期の150年までの墓が見つかっている。 ローマ期には、近隣の港湾都市カラヴォスタシがエジプトとの交易・輸送を担っていた[5]。
ビザンツ帝国期には、聖ゲオルギオスに捧げられた教会があった。リュジニャン朝キプロス王国やヴェネツィア共和国の時代には、レフカは地域の中心都市となり、フランク人・ラテン人の軍人・貴族たちが身を寄せた。1425年にマムルーク朝がキプロスへ侵攻した際は、リュジニャン朝の王族がレフカに避難した。中世レフカには小規模で簡素な宿があり、ソロイ、ヴニ、ソリア、マラタサなど周辺のトロードス山脈にある教会への巡礼拠点とされた。またヤッファ伯が近隣のペリステロナリ村に農場を保有していた[5]。
16世紀前半には、レフカは周辺村落を含めたバイラッジオの中心であったという記録がある。直轄地とされたレフカは16世紀最初の30年の間に人口が2倍になり、他のキプロスの都市と同様に耕作地が拡大し地価も上がっていった[6]。14世紀から15世紀にかけては、政府直轄のサトウキビプランテーションも置かれていた。豊かなメサオリア平野の西端に位置するレフカとモルフォウは、特に重点的に大きな利益を生むサトウキビ栽培のための直轄地が置かれた[7]。
1571年にオスマン帝国がキプロス征服した後、アナトリア半島からトルコ人がレフカに入植し、それまでラテン人が住んでいた土地や家に入った。またキプロス島で軍務についていたオスマン軍人が、引退後も子孫に至るまでレフカに住み続けることもあった[5]。その結果、レフカの住民はトルコ系キプロス人が多数派を占め、ギリシャ系キプロス人は少数派となった。1831年に行われた人口調査では、成人男性住民328人のうち、294人がトルコ系で34人がギリシャ系だった。1891年の調査では同様に、907人のうち741人がトルコ系で166人がギリシャ系だった。人口は1901年時点で1143人まで増えたが、1911年時点では1008人に減っていた。その後1921年時点では1163人となった[8]。
1921年以降、キプロス鉱山会社が銅鉱山を再び開いて操業開始した影響で、レフカの人口は飛躍的に増加していった。1931年時点では1781人、1946年時点では3666人(うち2685人がトルコ系、981人がギリシア系)となっていた。しかしトルコ系住民とギリシャ系住民の間の対立が激化した影響で、1950年代後半にギリシャ系住民のほとんどがレフカから退去した。1963年から1964年にかけての血のクリスマス事件以降、レフカはトルコ系キプロス人の飛び地の一つとされ、周辺の村から追放されてきたトルコ系難民が流入した。1960年時点で3674人(トルコ系3586人、ギリシャ系88人)だった人口は、1973年時点で4544人(すべてトルコ系)まで増加した[8]。
