ロジャー・ビゴッド (第2代ノーフォーク伯)
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| ロジャー・ビゴッド Roger Bigod | |
|---|---|
| 第2代ノーフォーク伯 | |
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1200年から1215年頃の紋章時代の初めに、第2代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドが採用した紋章(1269年以降、第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッドにより廃止された):金地に赤い十字 | |
| 在位 | 1177年 - 1221年 |
| 出生 |
1144/50年 |
| 死去 |
1221年 |
| 配偶者 | イダ・ド・トニー |
| 子女 |
ヒュー ウィリアム ラルフ ロジャー マージェリー メアリー |
| 家名 | ビゴッド家 |
| 父親 | 初代ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッド |
| 母親 | ジュリアナ・ド・ヴィア |

第2代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴッド(Roger Bigod, 2nd Earl of Norfolk, 1144/50年 - 1221年)は、初代ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドとその最初の妻ジュリアナ・ド・ヴィアの息子。
父ヒューは1176年あるいは1177年に亡くなったが、ロジャーは1189年までノーフォーク伯位を継承しなかった。イングランド王ヘンリー2世の治世に、継母が自らの息子らのためにロジャーの継承に異議を唱えたためである。リチャード1世はロジャーに伯位とその他の栄誉を与え、同年フランスに大使として派遣した。ロジャーは父の王室執事の職を継承した。また、ロジャーはリチャード1世の釈放交渉に参加し、リチャード1世がイングランドに戻った後は司法長官となった。
1173年から1174年にかけての反乱の間、ロジャーはヘンリー2世に忠誠を誓い続けたが、父ヒューはヘンリー2世に反乱を起こした王子らの側についた。ロジャーは1173年10月17日のフォーナムの戦いに参加し、王党派は第3代レスター伯ロバート・ド・ボーモント率いる反乱軍を破った[1]。
ジョン王の治世のほとんどの間、ロジャーは頻繁に国王と同行するか、王室の用事で出かけていた。しかし、ロジャーはジョン王にマグナ・カルタへの同意を取り付けた貴族らのリーダーの1人となり、ロジャーと息子ヒューの名前は、国王がその文書の条項を順守することを保証する25人の貴族の中に名を連ねている。父子は1215年12月に教皇によって破門され、1216年にジョン王は傭兵部隊とともにイースト・アングリアに進軍し、ロジャーの居城であるフラムリンガム城を包囲した。ロジャーは留守だったが、フラムリンガムの守備隊には26人の騎士、20人の護衛官、7人の石弓兵、1人の牧師、その他3人がおり、おそらくロジャーが戻って援護するまで持ちこたえるには十分であった。しかし城は2日後に降伏し、これはおそらく政治的な都合によるものと思われる。城を失ったのは一時的なものであった(ロジャーは1217年にジョン王の息子で摂政であったヘンリー3世と和平を結んだ)が、ロジャーはこの後公職から引退したとみられる。ロジャーは1221年に亡くなったが、領地はそのまま息子に継承され、ビゴッド家の権力は保持された。ロジャーは尊敬される人物であった。