ロスキレ条約 (1658年)
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背景
内容

- デンマーク領スコーネ地方をスウェーデンに割譲する。
- デンマーク領ブレーキンゲ地方をスウェーデンに割譲する。
- ブレムセブルー条約によりスウェーデンが30年間占有する、デンマーク領ハッランド地方をスウェーデンに割譲する。
- デンマーク領ボーンホルム島をスウェーデンに割譲する。
- ノルウェー領ブーヒュースレーン地方をスウェーデンに割譲する。これによりスウェーデン・西欧間の貿易の障礙がなくなった。
- ノルウェー領トロンデラーグ地方(ノルドモレとロムスダル含む)をスウェーデンに割譲する。
- デンマークは全ての反スウェーデン同盟から脱退する。
- デンマークは海峡を通過してバルト海に入るスウェーデンに敵対的な軍艦の通過を阻止する。
- ホルシュタイン=ゴットルプ公フレゼリク3世の領地を全て返還する[6]。
- デンマークはスウェーデンの占領軍の費用を支払う。
- デンマークはカール10世の戦争のために軍隊を供出する[7]。
その後
コペンハーゲン
カール10世はロスキレ条約に満足せず、彼は7月7日にゴットルプ城で行われた枢密院会議でデンマークを完全に消滅させることを決定した。そして、何の警告もなくロスキレ条約を破って再びデンマーク=ノルウェーを攻撃した。続くコペンハーゲンへの襲撃ではオランダが1649年の条約に基づきデンマークを挑発もなかった侵攻から守るために遠征艦隊と遠征軍を派遣した。オランダ艦隊がエーレスンド海峡の海戦でスウェーデン艦隊を破ったこともあり、コペンハーゲンの住民は抵抗に成功した。スウェーデン軍はミヒール・デ・ロイテル提督率いるデンマーク=オランダ連合艦隊に阻まれてランズクルーナとデンマークの諸島に分断され、翌1659年に撤退を余儀なくされた[7]。
ボーンホルム島とトロンデラーグ
一方、ノルウェー軍はスウェーデンの占領軍をトロンデラーグ地方から追い出すことに成功した。その結果、1660年のコペンハーゲン条約ではトロンデラーグがノルウェーに、ボーンホルム島がデンマークに返還された。
コペンハーゲン条約によるトロンデラーグ地方の返還は、スウェーデンの占領に対する現地の激しい抵抗を原因とする。スウェーデンの占領は歓迎されたか、少なくともすぐに抵抗されずに済んだが、スウェーデンはトロンデラーグ地方に徴兵令を敷き、15歳以上の男子2千人をスウェーデン軍に徴集してポーランドとブランデンブルクで戦うよう命じた。カール10世はトロンデラーグの住民がスウェーデンの占領に対し反乱を起こす可能性を考え、成人男子の大半を故郷から引き離すべきと考えた。徴兵された人々のうち、故郷に戻れたのは約3分の1だけだった。また統治を容易にするために一部スウェーデン領エストニア公国に強制移住された者もいた。トロンデラーグ地方の男性はすでに多くがデンマーク=ノルウェーの陸軍と海軍に徴兵されていたため、スウェーデンの強制徴兵はトロンデラーグ地方の男性をほぼ全て徴集した。結果は壊滅的であり、農地で収穫する人手が不足したため飢饉がおこり、トロンデラーグ地方の歴史家の一部はこれをトロンデラーグ人のジェノサイドであると考えた[8]。
数か月間だけながら、スウェーデンの徴税と徴兵は大きな憎しみを生み出し、デンマーク=ノルウェーの団結と愛国心を引き起こした結果となり、向こう80年間スウェーデンによるデンマーク=ノルウェー侵攻への対抗を強める結果となった[2]。
スコーネ地方
スコーネ地方はロスキレ条約の第9条によりスウェーデンに割譲されたが、スコーネ住民の特権、古い法律と慣習の継続は保証された。しかしながら、スコーネ地方はだんだんとスウェーデンに融合されていった[9]。スコーネ貴族はスウェーデン貴族に同化され、一般的なスウェーデン貴族の家系と同じ権利と義務でスウェーデン貴族院に迎え入れられた。スコーネ法は1683年にスウェーデン全国の法律に置換された。同年にはデンマーク全国で施行されている法律が導入され[10]、中世スカンディナヴィア法も置換された。そして、1686年にはスウェーデンの教会法が導入された[11]。
