ロズウェル・リポート
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『ロズウェル・リポート』("The Roswell Report")とは、1994/5年と1997年にアメリカ空軍によって発表された、ロズウェルUFO事件についての二つの報告書のことである。1947年にニューメキシコ州ロズウェル近辺からの異星人および彼らの乗り物が回収されたという、ロズウェルUFO事件についての懐疑的にみられることの多い解釈の多くは、この二つの報告書が下地となっている。
1994/5年の最初の報告、The Roswell Report: Fact verses Fiction in the New Mexico Desert[1]『ロズウェル・リポート: ニューメキシコ州の砂漠での事実vs空想』は、モーグル計画と呼ばれる秘密の軍の調査計画を、1947年に報告された残骸の存在の原因として同定した。1997年の第二の報告、The Roswell Report: Case Closed[2]『ロズウェル・リポート: 事件解決』は、異星人回収の報告は、軍の計画または事故を誤認したものだろうと結論づけている。
手法
1990年代中ごろまでに、ロズウェルUFO事件は、異星人の隠蔽を示唆する多数の本を作り出す小産業を生み出し、ロズウェルという街自体も有名なUFO関連アトラクションに集まる旅行者の観光地に変化していた。
1997年のCNN/Time をはじめとする複数の世論調査は、アメリカ人の大多数は、政府が異星人の存在する証拠を隠していると信じており、中でも特にロズウェル事件において異星人が回収されたと信じていることを示した[3]。
そうした背景をふまえ、1947年にロズウェルで本当は何が起きていたのかについて、多くの人々がアメリカ政府からの答えを要求していた。そして1994年1月、下院議員スティーヴン・シフSteven Schiffはアメリカ合衆国議会の調査支局である会計検査院(GAO)に、この問題を調査するよう要請した[4]。翌月、GAOの企画した公式監査が空軍に通知された。調査対象となる機関は空軍だけではなかったが、申し立てられている「隠蔽」に、もっとも関与したと一貫して認められているため、空軍が調査の焦点とされた。なお、1947年9月にアメリカ陸軍航空軍はアメリカ空軍となっており、全ての隊員、装備、記録その他を受け継いでいる。空軍長官はその後、事件についてのあらゆる情報を明らかにするよう調査を命令した[1](pp.1,10-11)。結果は、The Roswell Report: Fact versus Fiction in the New Mexico Desert と題された1000ページ近くの報告となり、1994年および1995年に発表された。この報告は、フォスター牧場で見つかった残骸の原形物らしきものを、初めて特定したことで重要である:モーグル計画と呼ばれる、軍の秘密計画に由来する気球の残骸。以前にもほかの数人がモーグル計画で使用された気球をこの残骸のありうる候補として示していた[1]。しかしながらこの報告は、それ以前には明らかにされたことがない特定の内容を有していた。それは多くの者に、「事件」が説明づけられたと結論させた。
この報告に用いられた調査手法は、事件についての多数の本にある主張と目撃談に基づいて、関連する記録があると思われる部局からの、空軍の記録を体系的に調査することだった[1](p.15)。報告によると、それらの本はほとんど決まって隠蔽があったと主張していた。また調査では、一部の懐疑論者の記事と著者たちにも助言を求めた。
これらの主張の多くは「伝聞証拠のもの、記録に残っていないもの、文脈から差し引かれるもの、利己的なもの、さもなければ疑わしいもの」のように判断され、その著者たちのあいだですら論争になっていた。そのため、全てのさまざまな主張について一点一点間違いであることを証明しようと試みるのは無意味であると判断された[1](p.16)。
主張を評価する困難さの例として、報告では隠蔽の調査を挙げている。隠蔽があったとする主張においては、名前とシリアルナンバーから研究家たちが捜し出した、「2ダースをこえる」数の隊員がロズウェルに配置されたと述べている。しかしこれらの名前とシリアルナンバーは、研究家たちが「各隊員がロズウェル陸軍飛行場に勤めていたとを立証」できたと主張していたにもかかわらず、軍の資料には見つけられなかった。空軍の調査官は研究家たちが挙げる11人の名前を捜した。しかし研究家たちは11人のシリアルナンバーを挙げることはしなかったので、調査官は名前だけを用いて8人の記録をすぐに見つけだし、他の3人は複数の可能な候補に共通した名前だった、と調査官は述べた。さらに見つけた8人のうちの一人は1951年に死んでいたが、研究家たちは何年も後に同じ人物、あるいはその名前を持つ誰か、をインタビューしたと主張していることを報告は記した[1]。
事件についての疑問に答えられる目撃者も捜し出された。47年が経過していたことから、関与した多くの人が今では死亡しており、実際の残骸の回収に関与していたと普遍的に合意できる人物は一名だけ―シェリダン・キャヴィットSheridan Cavitt―がまだ生存していた。彼は、他の人たち同様にインタビューを受けた。研究家からの「隠蔽」の非難が出ることが予期されたため、インタビューの内容を保証するために、インタビュアーには空軍長官(SAF)と空軍の上級安全保障官(Senior Security Official)から、彼らが知っているかもしれないあらゆる機密情報を議論する権限を与えられた。調査が行われたことで発生した特定の疑問に、その目撃者が答えられそうな場合を除いて、研究者たちによって挙げられた、個々および全ての目撃者たちに接触する試みはなされなかった。一部の事例では、調査に有用な記録を保管していた場合は、死亡した目撃者たちの遺族が調査を受けた。
空軍長官は空軍に「最高の機密と区分」にある記録、および特に異常な性質を持つあらゆることに関係する記録、を明らかにするよう指導した[1](p.17)。異星人またはUFOの回収は、どうも特別アクセス計画(Special Access Program・SAP)の高度な保護と管理プロトコルの支配下にあるらしかった。そこで存在していたあらゆるSAPが明らかにされるよう命令された。しかし何も存在しなかった、と報告された。これらの計画が秘密裏に存在していた場合、上官がそれに気づくことなしに、あるいはそれらの存在を記録する書面なしに、空軍を通して資金が出ることはなかっただろう、と報告は記している[1](p.18)。
これらの計画の存在への否定的な返答は、そういった記録が見つかるだろうと想定された、さまざまな場所の公文書や記録に調査の焦点を絞るはこびとなった。調査官たちは、複雑な公文書システムのいたるところで、彼らを協力できた公文書館員たちと歴史学者たちに助けられた。
異星人論の除外による事件の説明
集められた証拠に基づき、1947年の事件の正体は、飛行機の墜落、ミサイルの墜落、核事故、あるいは地球外の乗り物の回収ではなかった、と報告は結論づけた。明らかに、後者の結論は説明の鍵となるものだった。「……調査では、軍のある秘密作戦や他の何かにおいて、ロズウェル近辺に宇宙船が墜落した、あるいは異星人の乗員がそこから回収されたという、絶対にいかなる種類の[下線は原文]証拠も示されない」[1](p.20)。当時の軍の主要な目的は、もっと地に足のついた何かに向けられていた、と報告は記している: 「全ての報告は……懸念の焦点は異星人、敵国やその他にではなく、ソビエト連邦に合わせられていたことを示す」[1]。
一部の人たちがこの報告自体を「隠蔽」の一部だと決めつけ、おそらくロズウェルかその近くで異星人が回収されたことを裏づける証拠は隠されたままであるか、あるいは破壊されたのだ、と主張することは報告も認めている。これは反証するのがほとんど不可能な主張である。しかし、そういった影響力の強いできごとの隠蔽作戦には、大きな活動が確実に関連するはずだが、そういった活動があったことを示す証拠もまた完全に欠けている。これは、何かが隠されていたのだという主張の根拠が極めて薄弱であることを示している。「意図が未知である異星人の乗り物が、アメリカ領土に入り込んだ場合に必然的に生成されるだろう、警告、警戒態勢の告知、あるいはより高度な作戦活動が報告されたことを示すものはない」。報告はまた、数人の特定の高位の将官が、問題の時期のあいだに異星人の回収と隠蔽をとりまく活動に従事したという主張を、彼らの実際の文書に記録された活動を追跡することで論駁している。
事件の原因として異星人の回収を除外する中で、報告は次のように結論づけた: 「……人類の歴史において"分水嶺となる事件"の一つである何らかのできごとが起こったのだとしたら、アメリカ軍は確実に、平然と、鷹揚とした態度で応対する。この事例では、軍はロズウェルだけでなく全米の、何千人もの兵士と航空兵に、平然と活動し、普段どおりの勤務を行い、報告するふりをさせ、怪しい性質の事務書類は絶対に作成しないよう命令しなくてはならなかっただろう。同時に20年かそれ以上の未来において、大衆に政府文書を調査し探求するという大きな裁量を与える、広範囲な情報公開法が利用可能となることを見越さなくてはならなかっただろう。記録はこれらのどれもが起きていなかったことを示している(あるいはそれが起こったとすれば、それはとても効果的で堅固なセキュリティシステムによって制御されたものである。アメリカでもその他の国でも、その後誰もそのようなシステムを複製できなかった。そういったシステムが当時に有効であったとしたら、それはアメリカの原子力機密をソビエトから防護するのにも使われただろう。そして、それが明白に事実でないことは歴史が示している)。調査された記録は、そういった洗練された効果的なセキュリティシステムが存在しなかったことを確認する」[1](pp.21-22)。
モーグルの残骸の、もととなったものの認定
報告は、残骸の候補に挙げられた複数のものを除外し、証拠が示す残骸の正体と信じられているものを特定した。
報告によると、当時の新聞の記事と連邦捜査局(FBI)のテレックスは気球タイプの物体を示していた。また報告によると、The Roswell Events[5]などに見られる宣誓供述書の内容では、その記述も気球タイプの残骸としばしば一致した(目撃者たちが言った内容に関し、研究家たちが述べていることと反して)。「人物の多くが……彼らがこの事件について何か地球外的なものがあったと考えていると意見を表明したけれども、彼らの多数が実際は気球からの残骸にひどく似ている物体を叙述していた」[1](p.22)。引用された目撃者の陳述は、ジェシー・マーセル・ジュニア(Jesse Marcel Jr)、ロレッタ・プロクター(Loretta Proctor、マック・ブレイゼルの隣人)、ベシー・シュライバー(Bessie Schreiber、旧姓ブレイゼル)、サリー・ストリックランド・タドリーニ(Sally Strickland Tadolini、もう一人の隣人)およびロバート・ポーター(Robert Porter)からのものであった。調査官たちはさらに、気球に一致する物体を叙述したシェリダン・キャヴィットと、フォートワースで彼が見たものを叙述したアーヴィング・ニュートン(Irving Newton)にインタビューした。
GAOの要求の範囲が「気球観測用気球」を含んでいたことから、そういった計画への参照も求められ、モーグル計画についての文書がすぐに浮上した。それらは、問題の時間帯である1947年6月と7月に、アラモゴード陸軍飛行場(今のホロマン空軍基地)とホワイトサンズから放球された、気球を用いた秘密の計画に関するものだったために、調査の対象となった。モーグル計画は高層大気における低周波音響を監視することで、ソビエトの核実験を検知できるかどうかを評価するよう構想された調査計画だった。この計画はニューヨーク大学/ワシントン研究所の共同で行われた。後に明らかとなった、この調査の鍵となる人物は、まだ存命である: 調査監督、アゼルスタン・F・スピルハウス博士(Dr. Athelstan F. Spilhaus)計画技師、チャールズ・B・ムーア教授(Professor Charles B. Moore)そして軍の計画将校、アルバート・C・トラコウスキ大佐(Colonel Albert C. Trakowski)。彼らは全てこの報告のためにインタビューされた。
モーグル計画は高度に秘匿された計画であり、多くの当事者たちは調査の真の性質を知らなかった。ムーア教授自身はこの報告が編纂される少し前まで、この計画の名前を知らなかった。
報告から: 「現場の計画技師、ムーア教授は、彼のチームの取り組みに関する詳細な情報を提供した。彼らが最初にニューメキシコ州に到着した時に、彼らは全ての必要な装置を持っておらず、レーダー標的が気球を追跡するのに使われたことを彼は思い出した。初期の開発途上のレーダー標的の一部は、おもちゃや珍品の会社によって製造された。これらの標的は、立体凧の構成にいくぶん似ている多面反射板を形づくるため、アルミニウム「フォイル」またはフォイルに裏張りされた紙、耐久性を強化するための「エルマータイプの」のり(木工用のり)が塗られたバルサ材の梁、アセテートおよび/またはクロス補強テープ、一本のまたは撚り合わされたナイロン糸、真鍮のひも通し孔、そしてスイベルから作られていた。これらの標的の一部は、シンボルが印刷された、紫がかったテープで組み立てられていた。
ニューヨーク大学のグループの実験記録の要約によると、フライトAからフライト7(1946年11月20日-1947年6月2日)はネオプレン製の気象観測気球でなされた(後の飛行はポリエチレン気球でなされた)。ムーア教授はネオプレン気球は日光中での劣化の影響を受けやすく、乳白色から暗灰色になったと述べた。
彼は砂漠の中に着地した反射板と、搭載物を伴う気球の残骸を見つけたと記載した: 破裂してずたずたになったネオプレンは「たった数日の太陽への露出のため、ほとんど暗灰色か黒色の薄片、または灰に見えた。ネオプレンの中の可塑剤と抗酸化剤が独特の酸っぱい臭いを放出しており、気球の物質とレーダー標的の物質が地上に戻った後に地表風によって撒き散らされたのだろう」。1947年の、レイミー将軍の記者会見を撮った地元新聞の写真と、牧場で回収された残骸を取り扱ったと推測される、個人による一般書籍の中の叙述の調査に基づき、ムーア教授は物体は複数のレーダー反射板を伴う複数のネオプレン気球のずたずたになった残骸とするのが最も妥当だという意見を述べた。ムーアの科学的意見では、キャヴィットによって叙述された物体と「黒い箱」は、フライト4という「業務飛行型」に搭載されたものであった可能性が最も高い。フライト4は、厚紙で作られていた典型的な気象ラジオゾンデとは違う、円柱形のソノブイと箱に収められた気象機器の一部を搭載していた。さらに、当時の専門雑誌のコピーが一冊、A・P・クレイリー(A. P. Crary)によって保存されており、彼の未亡人によって空軍へと提供された。これはフライト4が1947年6月4日に、ニューヨーク大学のグループによって放球されたが、回収されなかったことを示していた。この極秘計画の、非機密の構成要素から作られた、気球隊列(フライト4)は、ニューメキシコ州ロズウェルの北西数マイルに止まり、地表風の中でずたずたにされていき、最後は10日後に牧場主ブレイゼルによって見つけられた、というのが可能性として非常にありえることである[1](pp.26-27)。
報告によれば、数人の他の研究家は独自にモーグルがフォスター牧場の残骸の源であったとの結論に達していた。そのうちの一人はカール・フロック(Karl Pflock)であり、この意見を空軍が発表する少し前に出版していた。ところが、フロックは、異星人の死体が回収された数マイル離れたところで、同時にもう一つの事件が起こったとも結論している。報告はこの「信用できない同時発生」を裏付ける情報は何も発見していないと記した[1](p.28)。
結論において、報告はこう述べた: 「空軍の調査は「ロズウェル事件」がUFOの出来事であったとするいかなる情報も突き止められず、発展もさせられなかった。全ての利用可能な公式の資料は、それらの資料自体はロズウェルに直接取り組んだものではないけれども、ブレイゼル牧場から回収された残骸の起源はモーグル計画の気球隊列のひとつに由来したことを示している」[1](p.30)。
この報告では異星人についての言及はほとんど完全になされなかったが、それについては五つの点が挙げられた: モーグル計画には異星人の乗客はいなかった; ロズウェルに異星人がいたと主張する人たちは、何の、どこの、そして何人の異星人が回収されたと思われるかについて合意ができておらず、これらの主張の多くがでっちあげであると証明されている; 異星人の主張はしばしば偽名を用いた人々によってなされる; 長いスパンの時間が善意の目撃者に過去の出来事の誤った解釈を引き起こさせているだろう[1](pp.30-31)。
報告についての批判
ケヴィン・ランドルKevin Randle[6](p.214)とスタントン・フリードマンなどの批評家たちは、この「1,000ページの報告」が、実際は豊富な支持文書を伴う23ページの報告であることを指摘した。支持文書には「誰も要求などしていないモーグル計画についての情報」も含まれる[7](p.113)。
フリードマンはロズウェル報告を「偽の情報が詰め込まれ、宣伝家の標準的戦術を用いたもの: データの選択的採用、罵倒、およびくどくどとした嘘の推論」であると記述した[7](p.112)。ランドルはこの報告を「利用可能な証拠の、限られた調査と限られたインタビューが、念頭にある使命のもとに行われたものである。それは、実際は、単に沈黙の共謀の本のもう一ページである」と記述した[6](p.222)。
この報告の、幾つかの特定の領域が批評家によって欠陥があると見られている:
モーグルへの文書がない: 批評家たちの指摘はこうである。添付文書の事実につき、文書で述べられている信頼性の全てを考慮すると、モーグルを事件に結びつける文書は一つも発見されず、当時の記述に合うようなモーグルの装置は製造されていなかった。それにもかかわらず、報告はモーグルがもっともらしい説明であると結論づけた。マーク・ロドガー(Mark Rodeghier)とマーク・チェズニー(Mark Chesney)は以下のように述べた: 「空軍が証明しているいかなる物理的証拠、あるいはモーグル計画による気球が回収されたと明白に述べる文書の証拠が見つけられなかった……ことは明らかである……。第二に、空軍は、1947年のモーグル気球の現物を持っておらず、目撃者にそれを示して肯定的な同定をもたらしていない」[8]。ランドルも同様の指摘をしている[6](p.222)。
モーグルは、回収されたと報告された残骸に似ていない: 一部の批評家によると、1947年に回収されたものが何であろうとも、多くの目撃者たちによって記述される通りなら、それはモーグルの物体についての報告の記述とは合致しない。フリードマンによると、「回収された物体は、モーグル気球の構成要素とは違って、非常に軽い重量と非常に大きな強度を含む非常に特別な性質を持っていた」[9](p.4)。「全てのこれらの[モーグルの]がらくたでは……[農家のマック・ブレイゼルがしたように]ロズウェルへ長い旅行をする価値があると考えることはできるわけがなかっただろう」[9](p.7)。
インタビューされた目撃者が5人だけで、信用できる目撃者がいない: 空軍は5人の目撃者だけにインタビューを求め、これらのうち3人がモーグルに関与していた。それはさらに、批評家にとって、彼らが好ましい理論の裏づけを捜し求めていたことを示した。ロドガーとチェズニー: 「我々は空軍がロズウェルについての文献において名前が挙がっている全ての人物にインタビューするとは確実に思えなかったが、しかしたった5人の人物にしかインタビューしなかったことは調査の真剣な意図と真のゴールに疑問を投げかける」[8]。
批評家たちは、インタビューされたこれらの目撃者のうちの数人の証言、特にシェリダン・キャヴィットの証言に焦点を合わせ、信用性に疑いを投げかけた。フリードマンは、以前にキャヴィットが彼と他の研究家たちに与えたインタビューに基づき、重い物体の衝突の気配がない、気象観測用気球と一致する少量の残骸についてのキャヴィットの話は「単純な、率直な、そして確実に嘘な」話であると記述する[7](p.114)。ランドルによると、空軍の結論を信じるためには、「我々は、ロズウェルの謎への答えを持つキャヴィットが、さまざまなUFO研究家によって何回もインタビューされたにもかかわらず、その答えを遅らせていたと信じなくてはいけない」[6](p.222)。
無視された重要な情報を持つ目撃者たち: 1994年までに、ほとんどの目撃者たちが死去している事実は認めるけれども、批評家たちが重要な情報と称する情報を持っている、大多数の目撃者たちは生存しており、そして無視された。ロドガーとチェズニーはこの遺漏のために、空軍の真の意図に疑問を投げかけた(上を参照)。ランドルによれば、「軍の将校と民間人の両方が秘密を守るよう誓わされたことと、残骸がモーグル計画の気球からのそれと一致しないことの両方を示す」大量の直接の証拠がある。「報告の著者リチャード・ウィーヴァーは全てのこれらのデータにアクセスしていたが、研究家がそれを調査するのを拒否した。彼らの作った文脈の中でのみ陳述が聞こえる、記録されたインタビューだけが利用可能であった。インタビューが記録されたのは、直接会ってインタビューできる目撃者のうち数人だった。「ウィーヴァーはモーグル計画の説明の弱点を示すだろうから、それを即座に却下している」」[6]。
「誤認」のために罰せられたと思われる将兵がいない: もし、批評家たちが主張するような「誤認」が、報告が記載するように単なる「ブランチャード大佐とマーセル少佐による激しい反発」なのだとしたら、なぜこれらの将兵がこの不手際の結果を経歴の一部に被らなかったのだろうか?ロドガーとチェズニー: 「激しい反発は事実だったのだ!今では一つの控え目な言葉がある……。このとてつもない不手際の後に、マーセルとブランチャード、特にブランチャードが空軍の中で成功した経歴を持っていることから、この説明はさらなる嘲笑を誘う。彼らの行動が、今空軍が主張していることだったとしたら、それは即時の降等という結果になったはずである[8]。
破棄された文書: 要請を出した下院議員スティーヴ・シフもこの報告に疑問を持った。事件についてさらなる解明への光を投じたと思われる、重要な文書が破棄されたとの報告がある、と彼は指摘している。
「GAOの報告は、この時期にロズウェル陸軍飛行場から出て行ったメッセージが、適切な権限なしに破棄されたと述べた」。これらのメッセージは、当時の将校たちがどのように彼らの上官に事件を説明したのかを示しただろう、とシフは言った。
「これらの外に出ていくメッセージは、決して破棄されるべきでない、永久の記録であったというのが私の理解だ。GAOは誰が、あるいはなぜ、メッセージを破棄したのかを特定できなかった」[10]。
これらの批判があるにもかかわらず、他のプロのUFO研究家たちはモーグル計画が1947年の事件への最良の説明であると結論づけた[11][12][13]。そしてさらに、失われたモーグル気球の放球の一つがチャールズ・ムーアによって復元されたことは、空軍の結論が正しいという可能性を多くの人に提示した。
モーグルフライト4の復元
空軍報告が発表されたすぐ後、1947年のモーグル放球チームにいたチャールズ・ムーアは、モーグル計画フライト4の在り得た飛行経路の復元を試みようと決意した。フライト4は、失われて回収されなかった、そして空軍によってフォスター牧場で回収された残骸のありうる原因と認定された飛行計画である。
ケヴィン・ランドルなどの一部の研究家たちは、モーグル放球の当日の風向から、この飛行はこの事件を起こしうる候補から除外されると示唆していた[14]。しかしムーアは風向を知っており、これらの気球が成層圏へと上昇したため、気球の飛行は簡単には推定されないことも知っていた。低層大気(対流圏)での風向が異なっていても、高層大気(成層圏)の風向は夏には東から吹く、とムーアは経験から知っていたのである。
フライト4の飛行経路を復元することの困難は、日記の記載以外に、どこにそれが飛行していったのかについて、少しの情報しかなかったことであった。気球と装置を追跡していたものについての唯一のヒントは飛行中にあった。レーダー、ソノブイおよび経緯儀が最初にモーグルの飛行を追跡しており、後者は重要であった。これらから、飛行はおよそ40マイルのレーダーの追跡範囲を越え、気球が漂流すると判明したので、ラジオゾンデのほうが選ばれ、後に捨てられることになった。他の飛行記録は存在し、それらはフライト2はレーダー追跡のためにレーウィン反射板を持っていたが、フライト5はラジオゾンデを持っていたことを示している。フライト4が失われたという事実と、フライト5が追跡のためにラジオゾンデを使用した事実が、フライト4をレーダーで追跡するのが不可能であったことの直接の結果であったことを強く示す、とムーアは推定した。もちろん、フライト4がレーダー反射板を持っていなければ、フォスター牧場の残骸の源ではありえなかった。
ムーアは彼が得られる限りの地元の気象と大気の情報を集め、フライト5と6から得られたデータを、フライト4が成層圏に入ったときのありえる旅行の方向修正に用いた。彼は元々のニューヨーク大学の記録に誤差を発見し、これを修正しなくてはならなかった。方位角がアラモゴードの磁気偏角を説明するために約12度だけ変えられた。これは気球の高度を著しく膨張させる効果を持っていた変化である。彼はさらに、これは上昇速度とどのくらい長く気球が空中にとどまったかの因子に影響を及ぼすと考え、気球が放球された一日の時刻(日記に記録されている)を考慮に入れた。
結果はフライト4がフォスター牧場の極めて近くに飛んでいく軌跡をえがいた。5や6などの、他の飛行計画では、続く日々の異なる風向のせいで、牧場の近くのいかなるところにも着地しえなかっただろう。ムーアの分析は、フライト4がフォスター牧場の残骸の原因であったことを証明するものではないにせよ、それにもかかわらずフライト4が原因として抹消されないことを確認した[15]。
他の人たちは、ムーアの知見に対し、あらかじめ決定されている着地地点を確認するよう仕組んだものとして反論した。しかしムーアの意図はフライト4が牧場に着地しえたかを確認することであり、それが実際に起こったかどうかを証明することではなかった。結局ムーアの調査から得られた唯一の「確実なこと」は、その飛行の旅路を正確に繰り返すことはおそらく不可能であることと、そもそもフライト4が問題の牧場に着地しえなかったことが今までの議論において立証されていたのか否か、ということであろう。
デヴィッド・ルディアック(David Rudiak)はムーアの分析に詳細な反論を提出している。彼はこう言っている、「彼は不適切に彼の自身のデータを集めて彼の自身のモデルをでっち上げた。結局は、彼は単純に彼が求めた軌跡に強制的に飛行経路を合わせただけだ」[16]。しかし、ロズウェルの討論でしばしば事実であるように、ルディアックの反論も詳細な反論を受けている[17]。