ロベルト・エドゥアルド・ビオラ
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アルゼンチン大統領として
経済政策
ビオラはロレンツォ・シゴーを財務大臣に任命し、シゴー(と彼の弟子ドミンゴ・カバロ)がビデラ時代の大臣ホセ・アルフレド・マルティネス・デ・ホズの経済政策の一部を覆す方法を模索している事が明らかになった。特に注目すべきは、シゴーは「ドルに賭ける者は負ける」と自慢した後、スライド為替相場制を放棄し、ペソを切り下げた事である。アルゼンチンは、プラタ・ドゥルセ(「甘いお金」)の時代の行き過ぎでビオラの地位が不安定化した後、景気後退に備えていた[3]。
また、ビオラは軍内部の内紛の犠牲者でもあった。エミリオ・エドゥアルド・マセラは海軍司令官を解任された後、自分の政治的な居場所を探し始め、政権によって強制収容所に収容されていた政治犯を強制的に無給で雇っていた。軍事政権の支持者の主流は、マセラの計画や、より「ポピュリスト的」な経済政策を実現しようとするいかなる試みにも強く反対していた。
外交政策

カーター政権が、冷戦の同盟国であるアルゼンチンとの関係を悪化させたと主張し続け、カーター政権が公式に非難を続けたアルゼンチンの人権問題への追及を止めたロナルド・レーガンの政策のもとでアメリカ合衆国とアルゼンチンの関係が大きく改善した[4]。
関係の改善により、アルゼンチンの情報機関はアメリカの中央情報局(CIA)との協力関係のもとで、ニカラグアのサンディニスタ政権に抵抗するコントラへの支援をおこなった。例えば、第601情報大隊はホンジュラスのレパテリケ基地でコントラの訓練にあたった。また、アルゼンチンはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスの部隊に、軍事顧問・訓練・物質的な支援をおこない、アメリカが支援するチャーリー作戦の一環として現地の反政府勢力の鎮圧にあたった[5]。
クーデターで失脚
ビオラは求心力が大幅に減退し、1981年12月、陸軍最高司令官レオポルド・ガルティエリ中将率いる軍事クーデターによって失脚した。公式な説明ではビオラの健康問題が理由とされた。ガルティエリはすぐにロベルト・アレマンを財務大臣に任命し、フォークランド戦争の準備と追求を指揮した。
