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ロベルト・プロシネチキ

クロアチアのサッカー選手 From Wikipedia, the free encyclopedia

ロベルト・プロシネチュキ(クロアチア語: Robert Prosinečki、1969年1月12日 - )は、クロアチア(旧ユーゴスラビア)の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF、セントラルMF)[1]。

愛称 ロビ(Robi)、ジュティ、バルカンの黄金銃
ラテン文字 Robert Prosinečki
生年月日 (1969-01-12) 1969年1月12日(57歳)
概要 ロベルト・プロシネチュキ, 名前 ...
ロベルト・プロシネチュキ
名前
愛称 ロビ(Robi)、ジュティ、バルカンの黄金銃
ラテン文字 Robert Prosinečki
基本情報
国籍 クロアチアの旗 クロアチア
生年月日 (1969-01-12) 1969年1月12日(57歳)
出身地 西ドイツの旗 フィリンゲン=シュヴェニンゲン
身長 182cm
体重 76kg
選手情報
ポジション MF(OM、CM)[1]
利き足 右足
ユース
1974-1980 西ドイツの旗 シュトゥットガルト・キッカーズ
1980-1986 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ディナモ・ザグレブ
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1986-1987 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ディナモ・ザグレブ 2 (1)
1987-1991 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード 117 (25)
1991-1995 スペインの旗 レアル・マドリード 55 (10)
1994-1995 →スペインの旗 レアル・オビエド(loan) 30 (5)
1995-1996 スペインの旗 バルセロナ 19 (2)
1996-1997 スペインの旗 セビージャ 20 (4)
1997-2000 クロアチアの旗 クロアチア・ザグレブ 50 (14)
2000 クロアチアの旗 フルヴァツキ・ドラゴヴォリャツ 4 (1)
2000-2001 ベルギーの旗 スタンダール・リエージュ 21 (4)
2001-2002 イングランドの旗 ポーツマス 33 (9)
2002-2003 スロベニアの旗 オリンピア・リュブリャナ 23 (3)
2003-2004 クロアチアの旗 NKザグレブ 26 (5)
2005 クロアチアの旗 サヴスキ・マロフ 4 (1)
代表歴
1987  ユーゴスラビア U-20 5 (1)
1989-1991 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 15 (4)
1994-2002 クロアチアの旗 クロアチア 49 (10)
監督歴
2004-2005 クロアチアの旗 NKザグレブ(アシスタント)
2006-2010 クロアチアの旗 クロアチア(アシスタント)
2010-2012 セルビアの旗 レッドスター・ベオグラード
2012-2014 トルコの旗 カイセリスポル
2014-2017 アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
2018-2019 ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
2019-2020 トルコの旗 カイセリスポル
2020 トルコの旗 デニズリスポル
2022 スロベニアの旗 オリンピア・リュブリャナ
2023 クロアチアの旗 ルデシュ
2024-2025 モンテネグロの旗 モンテネグロ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
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クラブ経歴

ユーゴスラビアからの出稼ぎ労働者の家庭の子供として当時の西ドイツで生まれ、1979年に帰国[2]。その後、ディナモ・ザグレブのアカデミーへ入団し[2]、ミロスラヴ・ブラジェヴィッチの指導を受けた[2]。1986-87シーズンにプロデビューを飾る[2]。1987年にはユーゴスラビアU-20代表として、チリで開催されたFIFAワールドユース選手権優勝に貢献し、ゴールデンボール賞を受賞するなど、一躍注目されることとなった[2]。

同年にレッドスター・ベオグラードへ移籍。チーム最年少でありながら、ドラガン・ストイコビッチらと共に中盤を組み立てた。レッドスターではリーグ優勝3回(1988年、1990年、1991年)、カップ優勝1回(1990年)。1990-91シーズン、UEFAチャンピオンズカップ 1990-91 決勝でフランスのオリンピック・マルセイユを下し、チームの初となる欧州制覇に貢献した[2][3][4]。

1991年にレアル・マドリードへ移籍。当時のユーゴスラビアでは25歳以下の選手の国外移籍が認められていなかったため、最終的に欧州サッカー連盟(UEFA)の裁定に持ち込まれた末の移籍だった。低迷していたチーム復権の希望を背負ったが、故障が続き、ファンの期待に応えることが出来なかった[2]。1994-95シーズンはレアル・オビエドにレンタル移籍、レアル・マドリードを3-2で破るなど、30試合で5ゴールを挙げ、調子を取り戻し[2]、翌年にはヨハン・クライフが獲得を希望し、FCバルセロナへ移籍[2]、しかし再び怪我に悩ませされ満足にプレー出来なかった[2]。その後セビージャを経て母国のクロアチア・ザグレブに帰還。2002年にはJリーグの名古屋グランパスが獲得に動き、一時は本人も移籍に合意したものの最終的には実現しなかった。[5]。以降はクロアチアやFAプレミアリーグ・ポーツマスFC、スロベニアのクラブなどでプレーし、2004年に現役を引退した。

代表経歴

ユーゴスラビアU-20代表として挑んだ1987年の1987 FIFAワールドユース選手権では、ダヴォル・シュケルやズヴォニミル・ボバンらと共に優勝に貢献、準々決勝のブラジル戦では決勝点を決めるなどの活躍を見せた。累積警告により決勝戦の西ドイツ戦は欠場となったが、大会MVPに輝くなど早くから才能を発揮していた[6]。

ユーゴスラビア代表としては1989年にデビュー。1990年のワールドカップ・イタリア大会では、1次リーグ第3戦のUAE戦で1得点を記録する活躍などで同国のベスト8進出に貢献した。選手としてキャリアの絶頂期にあったが、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴いクロアチア国籍を選択したため、UEFA EURO '92やワールドカップ・アメリカ大会などの主要国際大会からは遠ざかることになった。ユーゴスラビア代表での最終成績は15試合4得点[7]。

クロアチア代表としては1993年にデビュー。シューケルやボバンらと共に独立後初めて出場した1996年のUEFA EURO '96ではベスト8進出。1998年のワールドカップ・フランス大会では、1次リーグジャマイカ戦[2]と3位決定戦のオランダ戦で得点を決める(ジャマイカ戦は異なる2ヶ国の代表として得点した初のケースとなった)活躍などで3位入賞に貢献[8]、クラブでは度重なる怪我で活躍出来なかったが、この大会での活躍で再度名声を取り戻した[2]。2002年のワールドカップ・日韓大会にも出場するなど、クロアチア代表として国際Aマッチ49試合に出場し10得点を記録した[9]。

指導者経歴

2006年からはクロアチア代表のアシスタントコーチに就任し、代表時代の同僚であるスラヴェン・ビリッチ監督を補佐[10]。またザグレブでは2007年から喫茶店も経営している。2010年12月、古巣のレッドスター・ベオグラードの監督に就任した[11][12][13]が、2012年8月に辞任[14]。2012年10月にトルコ・スュペル・リグのカイセリスポルの監督に就任した。

2014年12月、アゼルバイジャン代表監督に就任[15]。

2018年1月4日、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表監督に就任[16]。

代表歴

出場大会

試合数

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ユーゴスラビア代表国際Aマッチ
年出場得点
198951
199072
199131
通算154
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さらに見る クロアチア代表, 国際Aマッチ ...
クロアチア代表国際Aマッチ
年出場得点
199451
199552
199690
199771
199884
199900
200020
200182
200250
通算4910
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監督成績

2020年11月21日現在
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クラブ 就任 退任 記録
試 勝 分 敗 勝率
ツルヴェナ・ズヴェズダ 2010年12月 2012年8月 6243109069.35
カイセリスポル 2012年10月 2013年12月 48181218037.50
アゼルバイジャン代表 2014年12月 2017年11月 226610027.27
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表 2018年1月 2019年11月 22967040.91
カイセリスポル 2019年12月 2020年8月 18657033.33
デニズリスポル 2020年8月 2020年11月 9126011.11
合計 178824155046.07
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タイトル

選手時代

レッドスター・ベオグラード
レアル・マドリード
NKディナモ・ザグレブ
オリンピア・リュブリャナ
U-20ユーゴスラビア代表
個人

指導者時代

レッドスター・ベオグラード

脚注

関連項目

外部リンク

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