ロマノス・メリキアン
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| ロマノス・メリキアン Ռոմանոս Մելիքյան | |
|---|---|
| 生誕 |
1883年10月1日 |
| 死没 |
1935年3月30日(51歳没) |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | 作曲家 |
ロマノス・ホヴァキミ・メリキアン(アルメニア語: Ռոմանոս Հովակիմի Մելիքյան ラテン文字転写の例:Romanos Hovakimi Melikian 1883年10月1日 - 1935年3月30日)は、アルメニアの作曲家、指揮者[1]、教育者[2]。アルメニアにおけるクラシック音楽の発展、並びにエレバン音楽院、エレバン歌劇場、アルメニア音楽協会といったアルメニアの音楽組織の設立において重要な役割を果たした[3]。
メリキアンは1883年10月1日にロシア帝国のキズリャル(現在のダゲスタン共和国)に生まれた。最初の音楽教育はロストフ音楽大学で受け、1905年に卒業した。勉学を継続するためにモスクワへと移り、同地で1905年から1907年にかけてミハイル・イッポリトフ=イワノフやボレスラフ・ヤヴォルスキーといった著名音楽家の下で研鑽を積んだ。1910年にサンクトペテルブルク音楽院への入学を許可され、ワシーリー・カラファーティやマクシミリアン・シテインベルクに作曲を師事、1914年に卒業した。
キャリア
25歳だった1908年にメリキアンはティフリス(現在のトビリシ)で「音楽連盟」の共同創設者となり、これが後にアルメニア音楽協会となった。彼はサンクトペテルブルク音楽院で学ぶためにティフリスを後にすることになる。学びを終えたメリキアンは1915年にティフリスへと戻ってくるが、直後の1916年にはヴァンの県へ向かう代表団に加わった。これはアルメニア人虐殺の中で残虐行為が行われた後に同地に残るアルメニア人への支援を行うためだった。
1918年、メリキアンはモスクワに所在するアルメニア文化館の音楽監督に任用された。1920年までにはティフリスとエレバンを往復する日々を送っていた。ソビエト連邦政府の支援を受け、彼は1921年にエレバンに音楽スタジオを設立、これが後の1923年にエレバン音楽院となる。
1924年から1925年にはステパナケルトに音楽学校を開校、ティフリスへ戻るとアルメニア芸術館(Hayartun)の音楽学校を率いた。1926年以降はエレバンでアレクサンドル・スペンジアリャンのオペラの普及のために活発に活動した。1933年にはエレバンのアルメニア・オペラ・バレエ劇場の共同創設者となり、同劇場の初代支配人に就任した[4]。
音楽上の貢献
メリキアンはアルメニアのクラシック音楽の草分けであった[5]。作品には合唱曲、独唱曲、ピアノ曲がある。彼の作品、中でも歌曲や連作歌曲はロマン派の様式で書かれており、アルメニア民謡をクラシック音楽へと組み込んでいることにより高い評価を受けている[6]。特筆すべき作品には『薔薇』、『秋』、『柳』、『別離』などがある[7]。またメリキアンはアルメニア音楽の生みの親であるコミタスの作品を保存、普及させるにあたっても重要な役割を果たした[8]。