ロレンツォ・バルトリーニ
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トスカーナのヴァイアーノで鍛冶屋の息子に生まれた。フィレンツェの小さなサイズの石膏像を制作する工房で働き、カッラーラのジュゼッペ・ピサーニ(Giuseppe Pisani: 1757-1839)の工房で働いた。
トレンティーノの彫刻家ジョヴァンニ・インソム(Giovanni Insom: 1775–1855)と出会い、指導を受けた。1795年にトスカーナのヴォルテッラに移り、彫刻家のバルテレミー・コルネイユ(Barthélemy Corneille:c.1760-1805)]の工房で働いた。
20歳になった1797年に、パリに移り[1]、画家のドミニク・アングル(1780-1867)と友人となり、アングルの紹介でパリの美術学校に入学した。アカデミーのコンクールで2位を獲得した際、後にルーヴル美術館の初代館長になるドミニク・ヴィヴァン・ドゥノン(Dominique Vivant Denon: 1747-1825)に注目され、ヴァンドーム広場のオステルリッツの記念柱のレリーフの制作など公的な仕事での注文を受けた[1]。
1807年か1808年に、ナポレオン・ボナパルトとルッカ・エ・ピオンビーノ公国の大公となったエリザ・ボナパルト支援を受けイタリアのカッラーラに派遣され、彫刻学校を設立し、ナポレオンが1814年に退位するまで校長を務めた。ナポレオンが失脚すると、住民から攻撃を受け、カッラーラから離れナポレオンとエルバ島に移った。1815年のワーテルローの戦いの後、フィレンツェに移った。バルトリーニは1812年にフィレンツェ美術アカデミーの名誉会員に選ばれていて、バルトリーニは亡くなるまでフィレンツェで、彫刻家として働いた。1837年に彫刻家のステファノ・リッチが亡くなると、リッチの後任としてフィレンツェ美術アカデミーの教授に就任した。
1850年にフィレンツェで没した。