1902年、父ジョセフと母エイダの元、サンフランシスコにて生を受ける[4]。
1919年6月13日、アメリカ陸軍士官学校に入学。1923年6月12日に卒業して歩兵科少尉に任官し、オクラホマ州フォート・シル(英語版)に駐屯する第20歩兵連隊(英語版)に配属された。1923年3月からはニューヨーク州ガバナーズ島に駐屯する第16歩兵連隊(英語版)に所属を移し、パリオリンピックに向けた選手選抜のためのトライアウトに参加。6月には選手としてパリに向かう。サーブル個人/団体に出場し、個人ではセミファイナルまで進出した。大会後の休暇を経て9月から第20歩兵連隊に再び勤務。1925年7月からは中国の天津に駐屯する第15歩兵連隊(英語版)で勤務。1927年2月には帰国し第20歩兵連隊に戻るものの、結核と診断され8月まで療養。9月からテキサス州エルパソにて徴兵担当として勤務。1928年8月21日に中尉へ昇進。1929年10月から第3師団本部勤務となり、師団長である父ジョセフ・コンプトン・カストナー少将の副官を務めた[5]。
第二次世界大戦中、アラスカ防衛司令部(英語版)に情報将校として配属され、1941年から1943年までは司令官サイモン・B・バックナー将軍の情報担当参謀長補を務めた[6]。1941年11月、後にカストナー喉切り団(Castner's Cutthroats)の通称で知られることとなる第1アラスカ戦闘情報小隊を結成。1942年、日本軍がアッツ島を占領すると、アラスカ防衛司令部は陸海軍合同の奪還作戦本部を設置し、カストナーもこれに参加した[7]。1943年から1944年までは太平洋艦隊付水陸両用軍(Amphibious Forces, Pacific Fleet)で副参謀長を務める[6]。
1944年6月30日、前年のアッツ島の戦いで負った戦傷が原因となり[4]、早期退役を余儀なくされる。陸軍将校としての最終階級は大佐だった。1944年から1945年、創業間もない頃のアラスカ航空で副社長を務めた後[2]、1946年にはアンカレッジにて食品の冷蔵および卸売業者L・V・カストナー社(L.V. Castner Inc.)を創業し、また海産物の空輸事業にも携わった[8]。1946年、レイチェル・マーガレット・クラブ(Rachel Margaret Crabb)と結婚[6]。
1949年、陸軍退役後から患っていた心臓病が原因となり、カリフォルニア州オークランドにて死去[4]。