ワット・シーサケット
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住職
石碑のホロスコープによると建設は1819年3月4日に開始され、1824年5月6日に完成した[1]。優美な大屋根が特徴のルアンパバーン様式に対し、本堂を取り囲むように広縁風のベランダを持つビエンチャン様式である。
ランサーン王国が分裂した18世紀以後、ラオスでは度重なる戦火に見舞われたために貴重な歴史的建造物の多くが破壊されたが、この寺院は建立当時の原形をとどめており価値が高い。一方で1837年のホー族の反乱により収蔵品の多くが略奪された。仏像の眼球として嵌めこまれていた宝石や頭部の装飾用の金細工などが持ち去られている。
フランス植民地政府により修復され、同時にペッツァラート王子の協力を得て経典図書館の印象的な建物も再建された。
ワット・シーサケットは僧侶の居住する僧院である。住職はマハー・ヴェート・マセナイ長老(ラーオ語:ພຣະອາຈານໃຫຍ່ ມະຫາເຫວດ ມະເສໄນ)である。2025年6月9日マハー・ヴェート・マセナイ長老はラオス仏教連盟協会主席代行に任命された[2]。2025年10月30日第7代主席に任命された[3]。
本堂
ワット・シーサケットの本堂(ラーオ語:ສິມ)は、仏教の伝統的な東向き、メコン川の流れと並行するスタイルとは異なり、南向きの構造である。8つの聖域を示す石の結界(ラーオ語:ສີມາ)が境界を定めている。天井は浮彫りの装飾で飾られ、各幾何学模様の中央には、蓮の花を象徴する9つのペンダントが配置されている。この装飾形式は、シャムでは18世紀後半から既に普及していた[4]。面積は296.56平米(25.4x15.7m)である[1]。
本堂上部壁面には1,164のニッチが設けられ、それぞれに2体の小仏像が安置され、植物模様と蓮の花で装飾されている。2,320体の仏像は、疑い深い者たちに対し仏陀が無数の姿で現れた「シュラヴァスティ(舎衛城)の奇跡」の伝説を表している[5]。当初安置されていた銀製の小仏像は現在は金箔を施した粘土製の仏像に置き換えられている[4]。
本堂内の壁画は主にバラサンカヤ・ジャタカ(Belasankhaya Jataka)をモチーフとする[5]。魔法の扇子を使って数多くの戦いに勝利し、後に菩薩となったボークカラパット王子の物語を描いている[4]。
本尊と燭台

本尊は19世紀初旬に制作された降魔成道の姿を表すマーラウィサイのポーズ(ラーオ語:ປາງມາຣະວິໄຊ 英語:Vanquishing Mara)のオンセーン大仏(ラーオ語:ພຣະພຸດທະຮູບອົງແສນ)である。その他にもアヌヴォン王が鋳造させたブロンズ製の2体の施無畏印を示すハームニャートのポーズ(ラーオ語: ປາງຫ້າມຍາດ)の立像、13世紀に制作されたクメール様式のナーガに守られる姿を現すナークポックのポーズ(ラーオ語:ປາງນາກປົກ)の仏陀坐像、17世紀のラオス様式の天界から降りてくる姿を表すリーラーのポーズ(ラーオ語:ປາງລີລາ)のプラバーン像の複製仏が安置されている[4]。

また、本尊の前にはラオスで最も美しいとされる1818年に制作された木彫りの燭台(ラーオ語:ຮາວທຽນ)(高さ1.88m、幅2.10m)が設置されている[4]。1930年マハウパラート(ブンコン王)は複製をつくらせ、パリと大阪に展示した。その複製は現在、ホーパケオに展示されている[6]。
僧房
僧房(ラーオ語:ກຸຕິ)は、ラオスの高床式の建物で当初の木製の建物は1922年リノベーションされた。内部は釈迦の逸話やジャータカの物語の絵が描かれている[4]。リノベーションを指揮したペッサラート王子(ラーオ語:ເຈົ້າເພັດຊຣາດ)は完成後3か月間出家し、この僧房に居住した[7]。

経典図書館
経典図書館(ラーオ語:ຫໍໄຕ)の四層の屋根はビルマ建築の影響を受けている。部屋内には、天井まで届く巨大な木製キャビネットが置かれており、四方の壁には、柱で囲まれたドアが設置されている。経典図書館にはティピタカ(三蔵)のバイラン写本を含む仏教経典が収められている。1824年のワット・シーサケットの開所式の際に、ティピタカは寺と宮殿の周囲をパレードで巡った後に、経典図書館に安置されたと伝えられている[4]。


回廊


回廊(ラーオ語:ກົມມະລຽນ)は非宗教的な世界から隔離するために周囲を囲むギャラリーとなっている。アヌヴォン王はバンコクの宮廷での流刑生活中に回廊建設のアイデアを得た可能性がある。各角に青銅の仏像が置かれ、回廊の端の壁には、ガラゲートとマニカープの馬の物語を描いた壁画の断片が今も残っている。回廊の黒漆塗りの柱と赤漆塗りの天井には、金箔で装飾されたオリジナルのスタイリッシュなステンシル模様の一部が見られる[4]。壁は3,420の小さな穴が彫られ、それぞれに2体ずつの仏像が安置される[5]。
石碑
入口にある石碑には建設は1819年3月4日に開始され、1824年5月6日に完成した記録が残されている[4]。石碑には以下のように記録され、落慶法要の様子も記されている。

...王は、十善戒を深く尊び実践されている...王は仏教の偉大な護法者であり、その教えを熱心に実践されている。王は、Vat Satasahasaviharamに王印を賜り... 仏紀2361年虎の年4月9日...寺とそれを囲む回廊の石が据えられた。...落慶法要では、竹紙でできた動物:象、馬、ラジャシ(伝説のライオン)、虎などの四足獣、ガルーダ、ノラヴィク、ノック・ハッサドリング、ホンカム(金の白鳥)などの二足獣が並べられた。山車と霊獣たちは整然と隊列をなし、蝋燭と線香が供花の傍らで灯され、その芳香は行列が進むにつれて虚空を満たし、雅楽は天上まで響き渡り、十方に広がりゆきました。行列はこうして王宮を三日間三晩かけて巡りました..[8]
歴史
1819~24年:アヌヴォン王による建設
ランサーン・ビエンチャン王国の最後の王であるアヌヴォン王により1819年~1824年に王宮の近くに建設された。1896年に撮影された写真やフランス極東学院(EFEO)の考古学者エティエンヌ・ルネ・ド・ラジョンキエールが1901年に描いた絵画などの歴史的文書は、その後修復される前の姿を示しているとみられる。当時は本堂の壁画は黒、赤、金で構成され、多くの官能的な場面も含まれていたとみられる。これらの多くは時間とともに、おそらく意図的に削除され、現在では僅かしか残っていない。バラサンカヤ・ジャタカ(Belasankhaya Jataka)の物語も含まれる[5]。
シャム軍によるビエンチャン侵攻
1827~28年にラーマ3世率いるシャム軍の破壊的な侵攻で、ビエンチャンでワット・シーサケットが唯一残された建物となった。ビエンチャンが完全に破壊され、無人化された。その後徐々に木々が繁茂するなかで、ビエンチャン王国の唯一のランドマークとして残っていた[5]。
壁画の第1期修復
1911年以前から壁画は手直しされており、Andrea Teufelは当初はフランス人は関与せずラオス人により独自に行われ、イサーン地域の芸術家が修復した可能性を指摘している[5]。
1922~1930年:フランス植民地政府による修復
フランス植民地政府による大規模な修復作業はタート・ルアンやホーパケオよりも先に首都の仏教の中心地としてワット・シーサケットで実施された[5]。ラオスのペッサラート王子と協力し[9]、フランス極東学院(EFEO)の建築家チャールズ・バテュール(1922-1923)とレオン・フォンベルタックス(1929-1930)の指導下で行われた[5]。フランス植民地政府は、再建資金が不足していたため、ラオスの在家信者から1,000ピアストルの寄付を集めた[9]。
壁画の第2期修復
Andrea Teufelは壁画の2回目の修復段階が素材・スタイルの分析により、この期間に該当する可能性は極めて高いと指摘している。また、スタイルがアジア的よりもヨーロッパ的であり、おそらくフランス極東学院(EFEO)の関係者であった可能を指摘している[5]。
1931年:経典図書館の開設
フランス植民地政府の支援により、再建された経典図書館の開館式が行われた[10]。
1930年代後半頃:壁画の第3期修復
1930年代後半ごろに壁画の3回目の修復がなされたが、作者は証明されていないがティット・パンによるものと推定される[5]。
1950年頃:壁画の第4期修復
ワット・シーサケットは、1948年、インドシナ戦争(1946-54)中に破壊された。建物の損傷の修復過程で、絵画にも一部改善が加えられた可能性がある。当時の困難な政治状況に起因して修復の質は低いものであった[5]。
フランス植民地以降の修復
1960年頃壁画の第5期修復
1960年頃、より大規模な修復作業が実施された。彩色セメントの床タイルが敷かれ、プー・シーソンカムにより象の隊列を描いた基部エリアが塗装された[5]。
2014年~2017年壁画の第6期修復
多くの場所で壁画が剥離するなど深刻な状態であったことから、既存の壁画はすべて最初に清掃と保存処理が行われ、さらなる損傷から守るための措置が講じられた。修復作業は、ドイツ、ベトナム、フランスの専門的な保存修復士からなる国際チームと、この分野を初めて学ぶラオス人アーティストが共同で実施した[5]。

拝観料
- 入場料 :外国人30,000キープ、ラオス人5,000キープ (2025/06現在)
- 入場時間 8:00-12:00、13:00-16:00
- 年中無休
本堂内は撮影禁止。
2024年のワット・シーサケットへ70,245人の拝観者があった[11]。

