ワット・ターレオ

From Wikipedia, the free encyclopedia

ワット・ターレオ(ラーオ語:ວັດຕາແຫຼວ)ラオスサワンナケート県(ラーオ語:ແຂວງສະຫວັນນະເຂດ)チャムポーン郡(ラーオ語:ເມືອງຈຳພອນ)ターレオ村(ラーオ語:ບ້ານຕາແຫຼວ)に位置する上座部仏教寺院である。

1969年の米軍機の空爆により寺院や村は甚大な被害を受け、ターレオ村の住民は約3キロメートル離れた場所に新しい村と寺院を再建した。こうした経緯から、元の場所にある寺院は「旧寺(ワット・ターレオ・カオ)(ラーオ語:ວັດຕາແຫຼວເກົ່າ)」と呼ばれる。戦争を生き延びて現存する構造物は煉瓦造りの本堂一棟のみで、周囲には布施堂などの残骸が点在している[1]

1969年以来、住職はいないが祭壇は維持されており、今でも礼拝や祈祷が行われている[2]

ワット・ターレオは、郡の中心部から約8km、有名な水上経蔵を持つワット・チャンタサロー寺から南へ約20キロメートルに位置する。この寺院の最大の特徴は、伝統的な仏教美術の造形に、西洋のカトリック教会を思わせる外観が融合している点にあり、ラオスの他の寺院とは一線を画す独特の美学を放っている[3]

内部は広々としており、修行の場として、また大きな坐禅仏を安置されている[3]

寺院の歴史と建設

この寺院の歴史は19世紀初頭に遡るが、現在語り継がれる壮麗な本堂(ラーオ語:ອາຮາມ)の基礎が築かれたのは20世紀初頭である[1]

1918年頃、住職となったパークー・チアン(ラーオ語:ພະຄູຈຽງ)が、村人たちの協力を得て、僧房(ラーオ語:ກຸດຕິ)、本堂(ラーオ語:ວິຫານ)、および外周壁を大規模に改修した。 当時は、約60名もの沙弥(ラーオ語:ສາມະເນນ)が修行に励み、寺子屋のような学校も併設されるなど、地域教育の中心的役割を果たしていた[1]

建設作業は村人たちの長期的な協力により、1970年頃まで数十年間にわたって断続的に続いた[4]

建築的特徴

ワット・ターレオの最大の特徴は、その独特な折衷造形美にある。

伝統的なラオス仏教美術の造形に、西洋のカトリック教会を彷彿とさせる外観が融合しており、非常に珍しい建築スタイルを誇っていた。構造には硬木、土壁、漆喰に加え、タマリンド、水牛の皮、クスノキ科のヤンボン(ラーオ語:ຢາງບົງ)の樹液、石灰岩を煮込んで作られた特殊な「天然セメント」が用いられていた[5]

象の意匠

パークー・チアンが象による旅を好んだことから、本堂の入り口には「象の足」を象徴する装飾があり、内部の祭壇では3体の仏像がそれぞれ象の像の上に鎮座するという非常に珍しい構成をとっている[5]

壁画

内部にはクー・ピラー(ຄູພິລາ)の手による鮮やかな壁画が描かれている[5]。題材は、ラオス国民に深く愛されている伝説のヒマパンの森(ラーオ語:ປ່າຫິມະພານ)に住む動物たちや、ヴェッサンタラ・ジャータカ(ラーオ語: ເວດສັນດອນ ຊາດົກ)、いわゆる釈尊の前世物語であり、1930年代に描かれた当時の色彩が今なお一部に残っている[1][2]

戦争の惨禍と「不発弾」の奇跡

1960年代後半、ラオスを襲った第二次インドシナ戦争の激化が、この寺院の運命を一変させた。

1969年11月20日の悲劇

当時、北ベトナム軍)が寺院の敷地を占拠していたため、アメリカ軍の攻撃対象となった。アメリカのF-105戦闘機による爆撃とミサイル、焼夷弾攻撃を受け、寺院と村の家々は灰燼に帰した[2]。この爆撃の際、一発の直撃弾が本堂の屋根を貫通した。しかし、その爆弾は不発弾であり、爆発しなかった。この不気味な巨大な爆弾が屋根に刺さったまま数年間放置されたため、僧団は「もはや修行に適さない」と判断し、寺院の放棄を決定した。これが、現在廃墟として残っている直接の理由である。なお、爆弾自体は後に信管が抜かれ、撤去されている[2]

1969年当時の戦況

1969年後半まで、サワンナケート県では、ラオス王国政府軍と北ベトナム軍の間で、ある種の暗黙の共存体制が維持されており、ラオス王国政府軍は最小限の兵力投入でメコン川流域やサワンナケート平原の支配を維持しており、一方で北ベトナム軍も南ベトナムへの補給路(ホーチミン・ルート)への干渉を避けるため、王国政府軍を刺激しないことに満足していた[6]

しかし、1969年9月に開始された「ジャンクション・シティ・ジュニア作戦(英語:Operation Junction City Junior)」によって、膠着状態は完全に打破された。この作戦により、ホーチミン・ルートへの直接的な干渉を開始した。1969年11月以降、ラオス王国政府軍側はさらなる成果を求め、攻勢を拡大させていた[6]

現状と保存・修復プロジェクト

爆撃後、村人たちは約3km離れた新道沿いに新しい村と寺院「ワット・ターレオ・マイ(ラーオ語:ວັດຕາແຫຼວໃໝ່)」を再建した。旧寺院は廃墟となったが、その歴史的価値から現在は文化観光地として注目されている。

残存遺構: 現在は、布施堂(ラーオ語:ຫໍແຈກ)と本堂の一部、土壁の僧房が残っており、戦争の悲惨さを伝える生きた教訓となっている。

修復プロジェクト: 2024年より、フランス極東学院(EFEO)主導の「CHAMPAプロジェクト」の一環として、100年以上前の貴重な壁画を保存・強化する専門的な修復作業が進められている。2026年3月頃には第1段階の調査が完了する予定である[7]

2022年には米国大使館文化保護基金(AFCP)の支援により、当寺院を含む県内3箇所の壁画保存プロジェクトが実施され、約40点の壁画が複製・展示された。

アクセス

参考文献

参考サイト

Related Articles

Wikiwand AI